二ツ森貝塚ボランティアガイドの会
青森県上北郡七戸町
太平洋岸の小川原湖西岸の標高30メートルの段丘上に立地します。海進期に形成された湖沼地帯の最奥部で、漁労や貝の採取などが行われ、竪穴建物跡や貯蔵穴が多数見つかっており、大規模な集落でありました。定住発展期前半を中心とした大規模な貝塚を伴う集落であり、湖沼地帯における生業や、海進・海退など環境変化への適応の実態を示す重要な遺跡です。
竹田市観光ボランティアガイド委員会
大分県竹田市
竹田市は熱心なキリシタンであった領主・志賀親次の影響で16世紀から布教活動が活発になり、豊後国最大のキリシタン信者たちが暮らしていました。そのため今もいくつものキリシタン遺物や竹田にしかない貴重な遺跡が残っており、これは藩ぐるみで信仰を隠した「“隠し”キリシタン」の里だったからなのではないかという説が唱えられています。 人々の暮らしの中に、今も息づくキリシタンの文化。 歴史の道を辿りながら、知れば知るほどに深まる謎を解く旅へ出かけてみませんか。
桑名歴史案内人の会
三重県桑名市
大正2年に完成した六華苑には、鹿鳴館を設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルによる4層の塔屋を持つ洋館と、和風建築およびその前庭の池泉回遊式庭園などがあり、明治・大正期を代表する貴重な建造物として国の重要文化財に指定されています。
かごしまボランティアガイドの会
鹿児島県鹿児島市
西南戦争の最後の戦場となった城山周辺を歩きながら西郷隆盛の思いや人柄を偲ぶコースです。
七里の渡し、桑名城址の九華公園、春日神社を巡ります。
おおむら歴史観光ボランティアガイドの会
長崎県大村市
大村氏は、中世の戦国時代から江戸時代、幕末、明治維新にいたるまで絶えることなく大村地方を治めてきた、非常にまれな大名です。 肥前大村藩二万七千石の城下町の風情を今もなお残す現在の大村市。 町のあちこちに今も残る武家屋敷跡や石垣をゆっくりと歩いて散策してみてはいかがでしょう。
伊予市観光ボランティアガイドふるさと案内人の会
愛媛県伊予市
瀬戸内海に囲まれ、豊かな風土に彩られる伊予市。なかでも中心街の郡中(ぐんちゅう)と呼ばれるエリアは懐かしい町並みが残り、散策がぴったりです。穏やかな伊予灘の風を感じながら、ノスタルジックな町歩きを楽しみませんか。
南九州市観光ガイド
鹿児島県南九州市
江戸時代、薩摩藩は領地を外城と呼ばれる102の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に麓と呼ばれる武家集落を作り、鹿児島に武士団を結集させることなく分散して統治にあたらせました。知覧もその一つです。 「知覧麓の武家屋敷群は、薩摩の麓の典型的な作例の一つで、折れ曲がった本馬場通りに沿って連なる石垣と生垣からなる景観にも優れ、我が国にとってその価値は高い。」として、昭和56年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 また、同時に地区内の7つの庭園が「優れた意匠で構成されており、その手法は琉球等庭園と相通じるものがあり、庭園文化の伝播を知る上でも貴重な存在である。」として国の名勝に指定されました。 指定された7つの庭園の中で森重堅邸庭園のみが池泉式で、ほかは全て枯山水式となっていて、今に残る枯山水の伝統美と時代の息吹を感じさせてくれます。
多治見観光ボランティアガイド
岐阜県多治見市
岐阜県内に3つある国宝建造物のうち、2つが多治見の虎渓山永保寺にあります。その庭園は国の名勝に指定されており、700年の歴史を肌で感じ取ることが出来ます。 また、赤い屋根と白い壁が映えるカトリック神言会多治見修道院では、キリストの一生に接することが出来、おみやげに修道院ワインの購入も可能です。
恵比須DEまちづくりネットワーク
佐賀県佐賀市
城下町・佐賀の街中を歩けばたくさんのえびすさんと出会います。ガイドとともに、散策しませんか。
野津原ボランティアガイド協議会
大分県大分市
今市は肥後藩主が参勤交代の休憩地になっており、肥後藩主細川候の参勤交代道路として使用され、本陣、脇本陣をはじめ茶屋、代官所、造酒屋等、軒を並べて賑わっていました。道幅8.5mの中央部に幅2.1m長さ660mにわたり、全面平石が敷き詰められており、さらに家屋に出入りの為の敷石が6ヶ所あります。この石畳は豊後鶴崎と肥後熊本を結ぶ肥後(豊後)往還の一部で、江戸時代、肥後藩細川氏の参勤交代道路として利用されていました。(豊後岡藩中川市も一時期利用していたようです)道路の両側には町家が立ち並び、今市町(岡藩の宿場)として賑わっていました。ここの宿場は一筋通の町並みだったため、宿場の中が見通されるのを防ぐ意味から、街の中央を鉤の手に二度曲げられています。県内に現存する石畳道は少なく、貴重な交通遺跡として、昭和47年3月21日に県史跡に指定されています。
四万十市観光ガイド LOILOIしまんと
高知県四万十市
起源は室町時代。応仁の乱の戦火を避けるため、関白一條教房公はここ中村(現・四万十市)に中村御所を構えました(現在の一條神社)。都を懐かしんだ一條公は、京都を模した碁盤の目状の街づくりをしました。昭和21年の南海大地震で昔ながらの街並みはほとんど残されていませんが、現在でも碁盤の目の街並みや鴨川や東山など京都に見立てた地名やゆかりの神社などもあちこちに残っていて、「大文字の送り火」や土佐一條公家行列「藤祭り」、「一條大祭」などの京文化の名残りもあります。