小京都まち歩きコース

起源は室町時代。応仁の乱の戦火を避けるため、関白一條教房公はここ中村(現・四万十市)に中村御所を構えました(現在の一條神社)。都を懐かしんだ一條公は、京都を模した碁盤の目状の街づくりをしました。昭和21年の南海大地震で昔ながらの街並みはほとんど残されていませんが、現在でも碁盤の目の街並みや鴨川や東山など京都に見立てた地名やゆかりの神社などもあちこちに残っていて、「大文字の送り火」や土佐一條公家行列「藤祭り」、「一條大祭」などの京文化の名残りもあります。

概略説明

「LOILOIしまんと」というガイド団体名のLOILOIは、「ろいろい」で土佐の言葉でゆっくり歩く(ぶらぶら歩く)という意味から取ったそうだ。

旧中村市(現四万十市)ができたのは、応仁の乱の翌年(1468年)に、この辺りの荘園を持っていた(幡多荘(はたのしょう))先の関白一條教房(のりふさ)が45才の時に来たことによる。四万十川と後川(うしろがわ)に囲まれた中村の地が京都に似ていることから、京都と同じような町づくりをおこなった。住み心地がよく、亡くなる58才まで中村で暮らした。その後、一條家4代106年にわたり中村を中心に支配した、公家が戦国大名になった稀有な例となった。 

一條家は五摂家(近衛・一条・九条・二条・鷹司)の一つで、摂政・関白を司ることができ、天皇家に奥様を出せる家柄だった。   

ツアー名に「小京都」とある。全国に小京都と言われるところが40ヶ所あり、京都と歴史的なつながりがある、京都に似た自然景観・町並み・たたずまいがある、伝統的な産業・芸能がある、のどれか一つに当てはまることが基準となっている。その中で、公家(一條教房公)が作った町は中村だけとのこと。 

咲かずの藤

4代目一條兼定は藤を楽しんでいたが、長曾我部に攻められ1574年に中村を去らなくてはならなくなった時に、「植え置きし 庭の藤が枝心あらば 来ん春ばかり 咲くな匂うな」 と歌を詠んだ。藤に心があるなら、今年は咲くなと歌を詠んだら、本当に咲かなかった。300年後の1861年にようやく咲き、翌年の1862年に一條神社が建立された。一條家の家紋は下り藤で、四万十市の市花は藤だ。 

お化粧の井戸

一條時代の唯一の遺跡の井戸で、洪水・地震・火事などがあったため、ほかの遺跡は何も残ってない。

井戸は石造りで、1枚岩を彫って作られている。鏡の替わりとしても使われた。

一條神社

拝殿には、下り藤の紋が至る所にある。(40か所)

扁額の「一條神社」を書いた人は、三条実美(さねとみ)で土佐に縁があったそうだ。

毎年11月22日~24日かけておこなわれる一條大祭は、いろいろな催しが行われ、大変な賑わいになる。

神社の一角にある舞台では、時折薪能「関白一條教房」が上演される。

天神橋アーケード街

現在通りになっているところに川が流れ、そこにかかっていた橋の名から天神橋と名づけられた。繁栄していたころの町の様子や昭和21年の南海大地震後の状況の写真を複数ヶ所で展示されている。四万十川のデルタ地形でできた町なので、地震には弱い。中村高校が12名の部員で昭和52(1977)年に甲子園準優勝した時のパレードの写真もあった。パレードには、3万人が集まったそうだ。

商店街の人通りは多くなかったが、シャッターになった店舗は少なく、ほとんどの店が営業していた。2012年に放映されたフジテレビの連続ドラマ「遅咲きのヒマワリ」生田斗真・真木よう子主演で、四万十市やこの商店街が舞台になった。

中村は、高知県西部では一番大きい町になる。

幸徳秋水

幸徳秋水は、明治4(1871)年に中村の商家に生まれた。土佐の自由民権の風土の中で育ち、自由・平等・博愛を唱えるジャーナリストとして活躍したが、明治44(1911)年、明治政府による弾圧(大逆事件)で処刑された。墓のある浄土宗正福寺には全国から多くの人が訪れる。命日の1月24日には毎年墓前祭が開かれている。

2021年、生誕150年を記念し、寺の境内に「非戦の碑」が建てられ、秋水が日露戦争に反対し「平民新聞」に書いた非戦論の一節が刻まれている。

四万十市の人たちの自慢三つのうちの一つが幸徳秋水だそうだ。(あとの二つは、四万十川と小京都) 

坂本清馬

幸徳秋水の墓と同じ並びに坂本清馬の墓がある。秋水とともに大逆事件で死刑判決を受けたが、翌日恩赦で無期懲役となり、昭和9(1934)年まで24年間入獄。無実を訴え続け、戦後、裁判のやり直し(再審請求裁判)を求めたが、最高裁で棄却された。

史跡めぐり

一條房基(ふさもと)の墓

お寺があった場所に、地元の人が祠を造って一條家3代目房基が祀られている。

18才の時祖父(初代)が亡くなり、20才で父教房(2代)が亡くなり、26才で母親(玉姫)が亡くなった。その後、長曾我部が攻めてきたのを悲観して28才で自殺した。4代目が7才の時だった。

樋口真吉邸跡

勤皇志士として幕末に活躍した。坂本龍馬より20才上だった。

中村目代屋敷跡

江戸時代の町人を統括していた役人の屋敷跡。

安岡良亮邸跡

安岡良亮は幕末の勤皇志士で、戊辰戦争では近藤勇を千葉・流山で捕まえ、首をはねることを指示した人物として知られている。その後初代の熊本県令(知事)になったが、1876年に起きた神風連の乱で殉職した。

幸徳秋水の親戚でもあった。

中村城

江戸時代初期は土佐藩と中村藩は分かれていた。見える天守閣は、中村藩時代のものだ。

木戸明邸跡

木戸明は漢学者・儒学者で、私塾を開き幸徳秋水の先生だった。

中村山内家屋敷・土佐藩幡多奉行所跡

当初は、中村藩主の屋敷があったが、元禄2(1689)年中村藩改易後は奉行所となった。

江戸末期の1858~1859年、後藤象二郎が高知から来ている。

奥御前宮

1221年に起きた承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと挙兵)により、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳天皇は佐渡に流された。後鳥羽上皇の子の土御門上皇は、自ら望んでこの地(土佐中村)に来て、1年7か月ほどいた。

奈良時代6か所ほどの流刑の地があった中の一つに土佐が入っていた。

一條教房の墓

土佐に最初に来た一條教房の菩提寺の妙華寺がこの辺りにあり、境内に祀られていたが、江戸時代に寺がなくなったため、教房公の遺徳を慕う人々により墓碑が再建された。

玉姫の墓

2代藩主一條房冬の妻で、京都の天皇家に近い家から嫁いできた。昔はどれだけ高貴な人でもなんとかの女と言われ、名前が付くのは珍しい。

県外からお嫁に来た天神橋商店街の女将さんたちが中心になり、四万十玉姫の会を発足させ、6月22日にお嫁に来て、8月22日に亡くなられたことから、22日を玉姫様の日としてお墓のお守りをしたり、商店街で催しをおこなっている。

遠近鶴鳴(とおちかかくめい)

1795年に生まれ、商家の生まれにもかかわらず学者となり、私塾を立ち上げ 幕末に活躍した樋口真吉・安岡良亮・木戸明など門下生を多く育てた。

幸徳秋水生家跡

幸徳秋水の生家は、俵屋という商号で薬屋・ 酒造り・味噌醤油・樟脳等手広く商売をおこなっていて、中村1.2を争う家だった。家の敷地も広く、412坪あった。

最終的に家も財産も命もなくしたが、世界に名を残した。

京町通り

土佐中村は、碁盤の目のように作られた町並みで、京町通りという通り名があるが、京都でいうと烏丸通と同じだそうだ。京町通を北へ上ると橋があり、川を越えて右方向に曲がると京都の地名にもある東山に向かう。

紺屋町(現京町)

紺屋町は職人の町で、右写真の佐竹染工場は、一条氏とともに京都からついてきた染物屋といわれている。後川はとてもきれいな川で、染物をするには適している。

酒蔵

藤娘酒造は、四万十市中村唯一の酒蔵で、江戸時代より引き継がれた日本酒を四万十川の伏流水を使い、完全手作りでつくり続けている。

ツアーを終えて

四万十市の中心の中村の町が、京都から来た公家により出来たことにはびっくりしたと同時に、ガイドさんたちが誇りを持っていることに感銘を受けました。

四万十市観光ガイド LOILOIしまんと

四万十川で有名な四万十市ですが、公家がつくったまち“土佐の小京都”であることはご存じでしょうか? 歴史あふれるまちのことを、もっと皆様に知っていただきたいと思い、四万十市では観光ガイド~LOILOI(ロイロイ)しまんと~をはじめました。 ガイドと一緒にまちをぶらぶら歩いて(=ロイロイ:土佐の方言)みましょう。 解説を聞きながら散策すると、普通に歩くだけでは気づかない、歴史の跡を見つけられるはずです。四万十市を大好きなガイドが、心を込めてご案内いたします。

団体窓口
(一社)四万十市観光協会
所在地
〒787-0014 高知県四万十市駅前町8-3
電話番号
0880-35-4171

ツアープラン情報

ツアー名
小京都まち歩きコース
料金
1人 1,000円
※中学生以下は無料、高校生は半額
開催日時
9:00〜17:00
(応相談)
ツアー時間
90分
予約受付
前日17時まで
※ガイドの手配が間に合わずお断りする場合があります。
お問い合わせ
(一社)四万十市観光協会
TEL
0880-35-4171
定休日
なし
営業時間
8:30〜17:30
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