達谷窟毘沙門堂・毛越寺・中尊寺コース

坂上田村麻呂が建立したと伝えられている達谷窟毘沙門堂と浄土庭園の毛越寺、金色堂の中尊寺を巡ります。

帯同していただいたガイドさん

お名前
代表理事 金 廣幸 さん
ガイド歴
8年
趣味・特技
旅行、砂金取り
一言PR
冬の中尊寺も荘厳な雰囲気で、とても趣があります。人の少ない月見坂を上りながら、古に思いを馳せるのも楽しみの一つです。

達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂(堂内撮影禁止)

平安時代、桓武天皇より征夷大将軍を任命された坂上田村麻呂が、良民を苦しめていた東北地方に住む蝦夷を倒し、平定できたのは毘沙門天のご加護と感じ、108体の毘沙門天をお祀りするお堂を、京都の清水の舞台をまねて建立したと伝えられている。(801年)

その後、前九年(1051~1062年)後三年(1083~1087年)合戦の時、源頼家・頼義が戦勝祈願、奥州藤原氏初代清衡・2代基衡が七堂伽藍を寄進した。そして1189年に源頼朝が奥州藤原氏を破った後、鎌倉に帰る途中参詣されたと吾妻鏡に記されている。

現在の毘沙門堂は、昭和21年の火災により5代目となっているが、火災を免れた当初の毘沙門天が、数十体祀られている。

岩面大佛

毘沙門堂の横には阿弥陀如来と言われる摩崖仏があり、前九年後三年合戦で亡くなった人たちへの供養のため彫られたと言われている。

蝦蟆ヶ池辯天堂(がまがいけべんてんどう)

池からは、平安末期の土器(かわらけ)が大量に発掘されている。

金堂

当初は802年に建てられたが、火災により焼失し、現在は平成7年に再建されたものになる。ご本尊は、ご神木の松で刻まれた薬師如来になる。

毛越寺(もうつうじ)

毛越寺は850(嘉祥3)年、天台宗の高僧慈覚大師円仁により創建された。毛越寺の名前は、円仁が白鹿の毛を辿ってきた(越してきた)ところから名付けられたお寺だといわれている。

奥州藤原氏2代基衡によって再興されたが、その後火災等により40あった建物はすべて焼失した。 

松尾芭蕉句碑

1689(元禄2)年に訪れた松尾芭蕉は、平泉で二つの俳句を詠んだ。最初に義経が亡くなった場所に行き、「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠んだ。新渡戸(にとべ)稲造が英訳した碑が毛越寺内にある。その後、金色堂を見て、「五月雨を 降り残してや 光堂」と詠んでいる。

毛越寺復元伽藍図

毛越寺にあるきらびやかなお堂と安らぐための庭園は、極楽浄土が表現されている。

南大門跡

浄土庭園の入り口にあったのが、今はない南大門。大きな2階建ての門で、大きな礎石12個が南大門のスケールの大きさを物語る。

橋の跡

池の底を見ると、対岸に渡る橋を支えていた基礎を見つけることができる。800年前の橋脚の跡で、国の特別史跡になっている。

州浜と出島・池中立石

大泉が池は海に見立てて造られていて、右側の奥には海岸の砂州があり、手前の石と対比させて、毛越寺庭園を象徴する景観となっている。

開山堂

開山堂は、毛越寺を開山した慈覚大師円仁(794~846年)をお祀りしている。

嘉祥寺跡

慈覚大師円仁が創建したお寺で、藤原氏2代目基衡が修復工事を始め、3代目秀衡の時代に完成した。

講堂跡

高僧の話を聞く講堂跡になる。

金堂円隆寺跡

金堂円隆寺は、藤原基衡が建立した。吾妻鏡には、金銀ちりばめた万宝を尽くした建物だったと書かれている。 

中尊寺の金色堂は柱4本で建てられているが、金堂円隆寺の礎石は36本あり、スケールが大きかったことが想像できる。礎石は特別記念物になる。

鑓水

平安時代の庭園の指導書「作庭記」に書かれた通りの庭が造られていて、全長80mあり、平安時代の鑓水遺構は唯一のものになる。流れてくる盃が自分の前までに詩歌を詠み、盃の酒を飲む宴が当時おこなわれていた。現代でも「曲水の宴(ごくすいのえん)」というイベントが5月に行われている。

常行堂

天皇の勅願寺として建てられ、ご本尊は阿弥陀如来になる。お堂内には鳥居もあり、魔多羅神(またらじん)を祀られた神社も兼ねていて、現在の建物は1732年に再建されたものになる。五穀豊穣家内安全を願い、正月二十日に老女と若女の格好をした僧侶が延年の舞を披露している。神楽のようなもので、重要無形文化財に指定されている。

観自在王院跡

藤原基衡の妻が建立した阿弥陀堂跡で、浄土庭園「舞鶴が池」を中心に遺跡が現在復元整備されている。世界遺産の一つとなっている。

州浜

池東側から見る景色がビューポイントとして、人気が高い。

中尊寺ハス

金色堂に安置されていた奥州藤原氏父子4代の遺体調査が昭和25(1950)年におこなわれた。その折、4代泰衡が納められていた首桶からハスの種子が発見され、種子を数十年かけて八百年かけて開花させたものがここに植えられている。極楽浄土で安らかに眠ってほしいと願いを込め、桶に納められたものではないかとのこと。

讃衛蔵(さんこうぞう)※堂内は写真撮影禁止

讃衛蔵は、中尊寺のお宝が展示されている施設になる。40あった金色堂・お堂が14世紀にあった大火で金色堂一つ残して燃えたが、持ち出すことができた仏像・宝物が展示されている。

平安時代に造られた仏像がいくつかある。阿弥陀如来像、薬を持っている薬師如来像、そして千手観音像だ。千手観音像は、左手・左足の親指が少し上がっていて「さあ行くよ」という格好をしている。32本の手があり、数珠・武器・杖などの道具持っていて困っている人を助ける手や何でも叶えるという意味で何も持っていない開いた手も一つある。

その他には、お経の教えを書いた文字で塔をかたどっている金字宝塔曼荼羅、金と銀の色で一行ずつ書かれたお経の紺紙金銀字交書一切経、金箔が貼られた清衡公が納められていた棺や泰衡公の首が納められていた桶等も展示されている。そして、藤原清衡が中尊寺を造った思い(2階建ての鐘楼を造り、20斤(12㎏)の鐘を一つ吊るし、鐘を鳴らすとどこまでも響き渡り、敵も味方もあまねく皆平等で、全員を供養したい)が書かれた古文書がある。

金色堂(堂内は写真撮影禁止)

藤原清衡・基衡・秀衡・泰衡4人の遺体が眠っていて、お墓でもある。生前殺生しているので、死後生まれ変わる輪廻の六つの世界から救済するために6体の地蔵が墓の後ろに配してある。

約5.5m四方の大きさの金色堂は、1124年に藤原清衡によって建立され、壁・床・軒先まで金色に輝いている。

中尊寺経蔵

讃衛蔵に納められている金字・銀字で書かれた紺紙金銀字交書一切経は、もともとこの中にあった。10人の僧侶が8年かかって5300巻書き上げた。素晴らしいとうわさを聞いた豊臣秀吉が伊達政宗に依頼して、5000巻差し出してもらい、母親が眠る高野山金剛峰寺にうち4296巻が奉納され保管されている。現在、中尊寺経として国宝に指定されている。

金色堂覆堂

この覆堂は16世紀のものと見なされ、昭和38(1963)年に新しい覆堂建築に伴い、この場所に移転された。最初の覆堂は、金色堂が建てられた数十年後には造られた。

能舞台

中尊寺内には、重要文化財である白山神社能舞台がある。8月14日夕方、周囲の篝火が焚かれる中、狂言や能が披露される中尊寺薪能(たきぎのう)が開かれる。

峯薬師堂

目によく効くという薬師堂になる。

本堂

小説家で参議院議員だった今東光がここの住職だった。また、瀬戸内寂聴がここで得度している。

藤原清衡の父経清(つねきよ)は前九年合戦の時、朝廷軍を当初破ったが、朝廷側に出羽国の清原氏が参戦してから負けて殺された。清衡7才の時だった。その後母親が清原氏に嫁ぎ、連れ子として生き延びたが、先妻の子・後妻の子家衡と清衡の3人の間で家督争い(後三年合戦)が起き、家衡に妻・子供が殺された。最終的に弟家衡を倒し、奥州藤原家の相続人となった。福島の白河から青森の外ヶ浜までの領土で、1万の村に1万のお寺を建て、その中心として中尊寺を建てた。

参道の途中から東方面に開けているところがあり、北上川・国道4号線・東北本線が見える。

一般社団法人古都ひらいずみガイドの会

世界遺産平泉は、奥州藤原氏が浄土思想の考え方に基づいて築いた都です。そのほとんどは遺跡としてしか見る事ができません。また平泉には多くの先人が訪れ、詩や句を残しています。 古都ひらいずみガイドの会は、地元を愛し知り尽くしたガイドが、平泉をご案内いたします。ガイドブックには載らない地元のお話など、分かりやすく丁寧にお話もさせていただきます。平泉へお立ち寄りの際はぜひ、ご用命ください。お待ちしております。

団体窓口
平泉駅なか観光案内所
所在地
〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉泉屋76
電話番号
0191-46-5710

ツアープラン情報

ツアー名
達谷窟毘沙門堂・毛越寺・中尊寺コース
料金
5,500円( 1~20名)
開催日時
9:00〜16:00
ツアー時間
約4時間
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
平泉駅なか観光案内所
TEL
0191-46-5710
定休日
年中無休
営業時間
9:00〜16:00
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