大石田町おすすめモデルコース

最上川の中継地として栄えた大石田の繁栄の歴史を巡ります。繁栄のピークだった元禄時代に訪れた松尾芭蕉やその松尾芭蕉の旅を追った正岡子規そして斎藤茂吉などの文化人にまつわる話を、町並みを巡りながら聞いていきます。

大石田町クロスカルチャープラザ「桂桜会館」

舟運で栄えた大石田町をモチーフに船の形をした建物で、最上川舟運の河岸(かし)場として栄え、多くの廻船問屋が軒を連ねていた大石田町の歴史や文化を、大工・左官・舟大工など職人たちが愛用した道具を通して紹介している。庭には大石田町出身で、大石田町に貢献した紀文初代社長保芦邦人の銅像がある。

建物の入り口横には、ギフチョウとカタクリの花をモチーフにした鏝絵がある。大石田町近くにある銀山温泉の旅館には多くの鏝絵があり、大石田町の左官職人が手掛けている。

川湊

江戸時代、最上川下流の酒田から大石田に大きい船が入り、物流の拠点として、大石田の町は大いに栄えた。またいろいろな文化や建築技術などの交流も盛んになった。

大工道具

北前船の影響の一つとして、京都の大工さんとつながりがあった。大石田で有名な大工は佐藤家で、江戸時代には京都の大工の門弟となり、寺社仏閣を手掛け、東本願寺本堂再建に参加した。

屋根下に使われる「懸魚」の展示もされている。

左官道具

左官では後藤家が有名で、名工伊豆長八の弟子となり、修行した人もいる。現役で鏝絵を作っている方もいるそうだ。

船大工道具

元禄の頃一番舟運が栄え、大石田の船が300艘、酒田の船が300艘合わせて600艘の船が大石田に出入りしていた。舟大工さんも多くいた中で、一番有名なのは木村家だ。展示されている道具を見ると、大工道具とあまり変わらない。

展示室の中央には小鵜飼船の模型が展示されている。川底が浅いところを進む小鵜飼船は、品物を積める量には限りがあったが、舳先がとがっていて、船脚が早く、小廻りが効き、最上川上流で使われた。

乗舩寺

1551年創建した寺で、最上義光(よしあき)の時代に舟運が発達し、町の区画整理がおこなわれた。その時代の1596年にこの場所に移転して来た。

町を守る、舟運を守る意味から、乗舩寺の「舩」の字が公の舟の字になっている。

釈迦如来涅槃像(写真撮影禁止のため、パンフレットから転写)

本堂手前にある経蔵(釈迦堂)内に安置されていて、涅槃像を見にくるお客様も多い。芭蕉が立ち寄った5年後の1694(元禄7)年に寄進されたもので、京都の仏師の作と言われていて、町指定文化財となっている。ガイドさんが住職に頼まれ一緒に涅槃像を持ち上げたことがあったが、中は空洞だったため軽かったそうだ。

お堂には現在鍵がかかっているが、昔はかぎが掛かっていなく、体の悪いところをなぜると治ると言い伝えがあったため、手・足・胸などなぜられた部分ははげかけている。

齋藤茂吉墓

齋藤藤茂吉は山形県上山市出身で、昭和28年に東京で亡くなった。戦争末期に、東京から上山市の妹の嫁ぎ先に疎開したが、戦争終了後戦争から甥っ子たちが引き上げてきて、部屋がなくなった。大石田町の弟子板垣家子夫(かねお)が町に住まいを用意し、昭和21年2月~22年11月初めにかけて居住していた。青山墓地、上山そして3番目の墓として、昭和47年に建立した。墓の表の文字は子の斎藤茂太、裏の字は斎藤茂吉が生前に戒名を書いている。板垣家子夫のお孫さんが、大石田町民俗資料館の館長をしている。

句碑

齋藤茂吉が大石田町で詠んだ傑作「最上川 逆白波の たつまでに ふゞくゆうべと なりにけるかも」が歌碑として、乗舩寺の本堂裏に建っている。北西の風が強く吹き、夕暮れのさびしい雰囲気を詠んだ。大石田町にいる間に850句詠んでいる。

芭蕉の道をたどり、明治26年8月6日の暑い日に舟で下ろうとしたが、遅れたため1泊した正岡子規が詠んだ「ずん々と 夏を流すや 最上川」も句碑として建てられている。当時松尾芭蕉は大石田から舟で行ったと思い、大石田から舟に乗ったが、その後曾良の日記が出てきて、松尾芭蕉の足跡が明らかになり、陸路で新庄に向かったことがわかった。

松尾芭蕉歌碑

芭蕉生誕300年祭の時に、齋藤茂吉の弟子の板垣家子夫のお子さんが建てた連句碑が板垣家の一角にある。松尾芭蕉は大石田町に3泊していて、4人(芭蕉・曾良・一栄(舟問屋)・高桑川水(大庄屋)))で36句詠んでいるうちの最初と最後の6句の松尾芭蕉直筆を碑にしてある。

松尾芭蕉がなぜ大石田に来たのか謎だが、尾花沢に10泊したときに高桑川水が訪れ、ぜひ大石田に来てほしいといい、俳句に指導をしてほしいといったのではないか、あるいは古くから歌枕として最上川が使われていたので一度見たかったのではないかと言われている。

川の風景

逆白波は、上流に向かって風が吹くとできる。

舟役所跡

最上義光の頃、上流から酒田まで続く最上川の中継地点として大石田に河岸(かし)場を造ろうとし、河岸にふさわしい町づくりを目指した。1622年最上家の改易により、藩がいくつもに分かれた一方天領が増え、幕府のコメの生産量が増えた。

1650年に大石田から上流・下流に出る舟は大石田の船を使いなさい(酒田から出る舟は酒田の船を使う)となり、大石田から出る舟の差配は大石田に任せるとなった。大石田の船問屋が独占支配するようになったため、周囲から不満が出てきた。1723年(徳川吉宗の時代)大石田の独占請負権を取り上げられ、酒田と大石田以外の河岸による差配となった。その後運上金上納制や入札制へと変わったが、入札額の高騰により舟運のシステムが破綻していく。さらに多数の船を所持していた大石田河岸が力を失ったことで舟運全体の輸送能力が縮小し、幕府米の輸送にも差し支えるようになった。幕府が困ったため、大石田に舟役所を造り、尾花代官所から1名、惣代1名、事務方2名の4名体制で、差配業務がおこなわれた。舟運賃は3%程度の固定制になり、大石田は中継地としての役割を戻し、明治時代まで続くことになる。舟役所は日本でここだけになる。

大石田から下流の酒田まで4~5日で行けるが、酒田から戻ってくるのは14~15日かかった。

歴史民俗資料館

芭蕉がここで詠んだときは、「五月雨を あつめて涼し 最上川」で、「奥の細道」にある「五月雨を あつめて早し 最上川」ではなかった。訪れたころは、蒸し蒸しした頃で、「川風が吹く涼しい宿に案内してくれてありがとう」というあいさつの句と考えられている。

舟問屋(一栄)と庄屋さん(川水)と弟子(曾良)を入れた4人で、最初の人が5・7・5と詠んで、次の人が7・7と詠み、これを続けていく連歌がおこなわれた。

発句が一番重要で芭蕉が最初に、「五月雨を 集めて涼し 最上川」と詠み、それに対して一栄が「岸にホタルを 繋ぐ舟杭」と詠んだ。舟問屋をやっている自分を舟杭に、蛍を芭蕉にたとえ、よく来てくれました、いつまでいてくださいという意味を込めた。4人9句ずつ36句詠んだものを、曾良が速記で書いた後、芭蕉が清書したものを「五月雨歌仙」と呼び、この資料館で保管されている。奥の細道では歌仙を何か所かで行われているが、芭蕉が清書したのはここ大石田のみだ。松尾芭蕉は、俳句を単なる遊びから侘び・寂びの文化に変えていった。

松尾芭蕉が訪れた元禄時代が、一番大石田が栄えていて、その頃は大坂に匹敵するほどだったと言われている。

歴史資料館に展示されている俳画や俳句・和歌などの話しを聞く。

俳諧の世界観を画で表す俳画は、与謝蕪村が高いレベルまで持っていった。

正岡子規は、長いもので100以上の句をつなぐ俳諧の世界を、最初に詠む発句だけを俳句という芸術として完成させたすごさがある。俳句だけでなく、和歌にも長けていて、短歌の世界も変えようとしようとしたが、早世したため、できなかった。その動きは齋藤茂吉に引き継がれていった。

聴禽書屋(ちょうきんしょおく)

資料館の一角に、齋藤茂吉が大石田で1年9か月間住んでいた建物・部屋がそのまま残っている。当時は堤防が低く、庭から道一つはさんで最上川だった。雪深い1月末に来た茂吉は、熱が40度に達する大病を患ったが、田舎で薬が手に入りにくい中、東京で医者をしていた息子の茂太に薬を頼み、一命をとりとめ、夏頃にようやく良くなった。

ウナギが大好物で、弟子の板垣家子夫が持ってきたウナギを喜んで食べたら看護師に怒られてすねたり、小便が近く外に出るときにはバケツを持っていつでも小便ができるようにした話など、面白い逸話も残っている。

戦時中の高揚感からの敗戦ショック、自分の老いへの自覚、など悩んでいた頃に、大石田で味わう暖かい心に触れた晩年に詠んだ歌集「白き山」は名作として評価されている。

大石田町観光ボランティアガイド「虹の町案内人」

最上川舟運の中心河港として栄え、著名な文人墨客が愛した町、「おおいしだ」魅力あるスポットを、地元の私たちがご案内します。

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大石田町産業振興課商工観光グループ
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〒999-4112 山形県北村山郡大石田町緑町1番地
電話番号
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