伊万里・街なか観光コース

江戸時代の初め伊万里、有田、波佐見など西肥前一帯で焼かれた磁器はこの伊万里の港から国内はもとより長崎の出島を経て世界中へ輸出されました。その地名から「古伊万里」と呼ばれています。
かつてその積出港として栄えた伊万里津の歴史など、市街地を散策しながらご案内いたします。

伊万里焼の概要

江戸時代は、有田や波佐見で焼かれたやきもの(焼物)が伊万里に集められ、伊万里津(港)から日本全国や長崎経由ヨーロッパへ出荷されたものすべてを伊万里焼と言っていた。それを現在、古伊万里焼と呼んでいる。今は産地の名前で呼ぶ様になったので、有田焼、波佐見焼、三河内焼、伊万里焼などと呼ばれている。

陶器商家資料館「丸駒」について

陶器商家資料館「丸駒」は、陶器商人の家で、丸駒がある通りに、商人たちの家が並んでいた。この建物は、平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて並べる本瓦葺きで、切妻造(きりづまづくり)の屋根でできている。築200年ほどたち、白壁造りで、重厚さと防火を兼ね備えている。

玄関

正面の大戸は、揚げ戸という江戸時代のシャッターで、ロープが戸に引っ掛けてあり、錘(おもり)と滑車を使って上下に開閉できるようにしてあり、厳重な戸締りになっている。

通り側の作業部屋

窓には、上から下に降ろす3段にわかれた板戸を蔀(しとみ)戸といい、内側に水平に釣り上げて開ける仕組みになっている。

作業場は、荷物を出す場所で、陶磁器の皿を稲わらの縄で1枚1枚縛って梱包していた。荷物を包む人を荷師(にし)といい、専門職で伊万里では昭和20年くらいまでいたそうだ。江戸時代には、おばちゃんたちが晩の準備に稲わらを持って帰って使ったため、大火があり、伊万里の町の半分が焼けたことがあったとのこと。財力がある商人たちが、その後白壁土蔵の家を建て、防火に強い家を造ったそうだ。川から倉庫・作業場兼店舗・中庭・家と相当奥行きのある敷地だったとのこと。川からやきものを艀(はしけ)船に乗せ、沖に行き本船に積み換えていたそうだ。

作業場には神棚があり、お稲荷様と枡(ます)の中に入った大黒様が祀られている。五穀豊穣と富をつかさどる大黒様とお米をはかる枡の中に入っているのは、ますます繁盛という意味とのこと。

荷物あげの滑車について

諸国から買い付けに来る陶器商人たちは、注文品が出来上がるまでに2~3か月、長いと半年待つのが常であったため、2階は宿として利用されたそうだ。そのために荷物を上げるための滑車が備え付けられている。

2階

狭いスペースを有効に使うため、2階に上がる階段を使ったタンスがある。2階は客間で、立派な欄間や漆で塗られている天井がある。作業場の上は、タンスなど荷物をしまうスペースになっている。川向こうに佐賀藩番所があり、長崎への出入りの確認も厳しくおこなわれていたため、遊里はなく、当家の商人(主)たちは、俳諧、和歌を、商人の子女は、三味線や舞で、旅商人たちを慰めていたそうだ。家の造りは、ほかの商人の家も大体一緒とのこと。

伊万里津

江戸時代当時荷出しがおこなわれていた場所で、現在残っているのはここ一つで、広さはこんなものという程度の川へ下る階段があるだけだった。川幅はもともと狭かったが、昭和42年の水害で対岸を広くし、川幅が倍になったそうだ。10月下旬におこなわれるトンテントンという祭りのクライマックスの「川落し」が、この場所少し下流でおこなわれる。日本三大けんか祭りの一つで、伊万里くんちと言われているとのこと。荒神輿と団車の双方が、「トンテントン」と打ち鳴らす太鼓を合図に、双方激突し組み合う壮烈な喧嘩祭りだそうだ。川に落ち陸に早く引き上げられた方が勝ちとなり、荒神輿が先に上がると豊作、団車が先に上がると豊漁に恵まれるといわれているとのこと。

相生橋

相生橋から上流にかけて、延命橋(赤橋)・幸橋と続き、この3つを渡ると、縁起がいいと言われているそうだ。相生橋には昔は、相生の松・夫婦(みょうと)松と呼ばれる松があったとのこと。

橋にある焼き物は、伊万里市が古伊万里文化を継承するために、伊万里から焼物を積み出したという証のモニュメントとして作られたそうだ。そのうちの一つ沈香壺は、香を入れておいてお客様が来たら、ふたを開けて香りを漂わせたインテリアとして利用されたもので、実際に使用する場合はもう少し小ぶりとのこと。

あいあい通り

相生橋から延命橋に向かう通りをあいあい通りといい、白壁の建物が立ち並び、昔の倉庫があったことを偲ばせる。江戸時代には伊万里は千軒在所といって800軒ほどの民家があり、その1割の80軒ほどが陶器商家で、川向うの番所から監視されていたとのこと。

川の柵には、昔の陶器商家の家の絵や地図が展示されている。このあたりは佐賀本藩だったが、沖に出て湾内の海に近い現在楠久津と呼ばれているところは小城藩だったそうだ。

延命橋(通称:赤橋)

橋の両側に、瓢箪ナマズと碁盤の目に座った唐子が飾られている。唐子のデザインの代表は三河内焼で、後に伊万里に伝わったそうだ。伊万里(鍋島)焼は、日本遺産「日本磁器のふるさと 肥前」の構成遺産の一つとなっている。唐子の人形のモニュメントの台には、「いまりまだら」の歌詞が載っている。「いまりまだら」は、日本各地から商人が来て、商談が成立した時に歌っていたそうだ。手拍子が独特で、手をひねりながら手拍子を打つとのこと。「いまりまだらを歌おう会」という団体を立ち上げて、昨年10名程で歌ったら反響があったそうだ。おねだりして、ご披露いただいた。

江戸時代は、この赤橋まで艀船が入って来て、荷物の積み出しがおこなわれた。川底が浅いため、大きい船は入れなかったとのこと。

延命地蔵尊

江戸時代、伊万里川にお地蔵さんが流れ着いたものを、地元の人がここにお祀りし、首から上の病や長生きに霊験があるそうだ。 延命地蔵を祀った所から延命橋と名付けられたとのこと。

伊萬里神社

伊萬里神社は、中国から橘の苗を植えた事が由来の香橘神社(こうきつじんじゃ)、海運の神様の戸渡嶋神社(ととしまじんじゃ)、岩栗神社(いわくりじんじゃ)の3つの神社が合祀してできたそうだ。鳥居が3つ並んでいて、すべて江戸時代に造られたものだそうだ。

前田家住宅

江戸時代、大庄屋だったお宅で、主屋は1784年ごろに建てられ、茅葺き屋根のクド造りは佐賀県で一番大きいそうだ。家の中を見ることはできなかったが、お茶会などの催しの時は、今でも使用しているとのこと。 

伊万里市は明治に入って伊万里県になったこともあり、一番人口が多い時は10万人もいたが、 今は6万人切っているそうだ。昭和の市町村合併の時に、旧鍋島藩と旧唐津藩が一緒になった。旧鍋島藩は質実剛健で、旧唐津藩とは風土(考え方)がかなり違ったとのこと。

伊万里市観光ボランティアガイドの会

江戸時代に入り、有田で磁器が焼かれるようになると、積み出し港として伊万里港は一気に発展しました。1670年代に入ると、独自の製法の秘密を守るために、有田にあった藩窯が三方山に囲まれた伊万里の大山内山に、置かれました。鍋島焼のふるさと、そして伊万里港を中心とした江戸時代の面影を伊万里に来ていただき、ぜひガイドの話しを聞きながら堪能してください。

所在地
〒848-0047 佐賀県伊万里市伊万里町甲555-1 伊万里市陶器商家資料館内
電話番号
0955-22-7934

ツアープラン情報

ツアー名
伊万里・街なか観光コース
料金
1時間あたり、
1~10名 1,000円
11~20名 2,000円
21~30名 3,000円
31~40名 4,000円
開催日時
10:00〜17:00
ツアー時間
約70分~90分
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
伊万里市観光ボランティアガイドの会
TEL
0955-22-7934
営業時間
10:00〜17:00
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