日南市観光ガイドボランティアの会
宮崎県日南市
江戸時代、飫肥藩・伊東氏の居城だった飫肥城跡を案内します。地元の歴史と観光スポットの紹介に熱意を持ったボランティアメンバーで構成され、9ヶ月間の事前研修や毎月開かれる勉強会、県内他地域の史跡めぐりなどを通して、研鑽に努めています。
百済の里観光ボランティアガイドの会
宮崎県東臼杵郡美郷町
百済の里の名所をめぐる! 飛鳥時代に滅亡した百済から、王家の一族が流浪の末たどり着いたという伝説の残る美里町南郷地区で、西の正倉院を中心に村内の名所旧跡を“もてなしの心”を大切にしながら案内しています。
日向市歴史観光ボランティアガイド平兵衛さんの会
宮崎県日向市
美々津町並み~大御神社~米の山展望台~クルスの海~黒田の家臣を巡ります。
宮崎県庁見学ツアー事務局
宮崎県宮崎市
全国でも4番目に古い県庁舎である宮崎県庁本館。 昭和7年に建設された近代ゴシック様式の建物で、国の有形文化財に登録されています。 県庁本館の内部や前庭を、歴史や魅力を伝えながら、ボランティアガイドが案内します。
肝付ふるさと案内人
鹿児島県肝属郡肝付町
肝付町を訪れる観光客や町民のために、地元の名所、旧跡、文化財や特産品を案内します。
えびのガイドクラブ
宮崎県えびの市
「田の神」は、冬は山の神となり、春は里におりて田の神となって田を守り、豊作をもたらすと信じられており、「田の神」信仰は、全国に農村に浸透していますが、「田の神」を石に刻んで豊作を祈願する風習は、薩摩藩独特の文化です。えびの市には、この「田の神さぁ」が約150体鎮座されており、その箇所を案内いたします。また、九州の関ヶ原とも言われている木崎原古戦場跡地など歴史文化の案内も行います。
国宝臼杵石仏ボランティアガイドの会
大分県臼杵市
臼杵石仏は、凝灰岩の岩壁に刻まれた摩崖仏群です。平安時代後期から鎌倉時代にかけて掘られたといわれていますが、誰がどのような目的で造営したのか、はっきりしたことは分かっておらず、今なお多くの謎に包まれています。平成7年6月に、摩崖仏として初めて国宝に指定され、見事な彫刻技術と仏の数では、他に類を見ることなく、高い評価を得ている石仏をガイドと一緒に巡ってみませんか。
竹田市観光ボランティアガイド委員会
大分県竹田市
竹田市は熱心なキリシタンであった領主・志賀親次の影響で16世紀から布教活動が活発になり、豊後国最大のキリシタン信者たちが暮らしていました。そのため今もいくつものキリシタン遺物や竹田にしかない貴重な遺跡が残っており、これは藩ぐるみで信仰を隠した「“隠し”キリシタン」の里だったからなのではないかという説が唱えられています。 人々の暮らしの中に、今も息づくキリシタンの文化。 歴史の道を辿りながら、知れば知るほどに深まる謎を解く旅へ出かけてみませんか。
さつま町文化財ボランティア さつまガイド
鹿児島県薩摩郡さつま町
宗功寺は江戸時代の初めに宮之城郷の私領主であった島津忠長によって、現在の宮之城町虎居の松尾城跡に同家の菩提寺として創建されたもの。 墓地には,2代忠長以降の歴代の当主及び家族の墓33基と平成3年に鹿児島市吉野町から改葬された15代久治以降の当主らの合葬墓のほか、島津家の由来と祖先の功績が記された亀跌碑など多くの石造物が残されている。
野津原ボランティアガイド協議会
大分県大分市
今市は肥後藩主が参勤交代の休憩地になっており、肥後藩主細川候の参勤交代道路として使用され、本陣、脇本陣をはじめ茶屋、代官所、造酒屋等、軒を並べて賑わっていました。道幅8.5mの中央部に幅2.1m長さ660mにわたり、全面平石が敷き詰められており、さらに家屋に出入りの為の敷石が6ヶ所あります。この石畳は豊後鶴崎と肥後熊本を結ぶ肥後(豊後)往還の一部で、江戸時代、肥後藩細川氏の参勤交代道路として利用されていました。(豊後岡藩中川市も一時期利用していたようです)道路の両側には町家が立ち並び、今市町(岡藩の宿場)として賑わっていました。ここの宿場は一筋通の町並みだったため、宿場の中が見通されるのを防ぐ意味から、街の中央を鉤の手に二度曲げられています。県内に現存する石畳道は少なく、貴重な交通遺跡として、昭和47年3月21日に県史跡に指定されています。
湧水汽車会(わくわくぽっぽかい)
鹿児島県姶良郡湧水町
「日本名水百選」のひとつに選ばれている丸池は、日量約6万トンの水が湧き出し、町の生活用水に利用されています。春は桜、夏はホタルの名所としても知られていて、水路沿いの石畳の小道は散策にぴったりです。9月初旬には、この丸池湧水の恩恵に感謝する「名水丸池感謝の夕べ」が行われ、丸池内、周辺に約1,000本の竹灯篭を浮かべ、幻想的な姿に変身します。
株式会社ビッグトラベル
岐阜県大垣市
1600年9月15日(新暦10月21日)午後、関が原合戦で西軍が総崩れになる中、最後まで戦場に残っていた島津義弘隊は、敵中突破による前進退却を敢行し、多大な犠牲を払いながらも大将の義弘を薩摩に帰国させることに成功させたこのことを、世に名高い「島津の退き口」という。