国宝臼杵石仏

臼杵石仏は、凝灰岩の岩壁に刻まれた摩崖仏群です。平安時代後期から鎌倉時代にかけて掘られたといわれていますが、誰がどのような目的で造営したのか、はっきりしたことは分かっておらず、今なお多くの謎に包まれています。平成7年6月に、摩崖仏として初めて国宝に指定され、見事な彫刻技術と仏の数では、他に類を見ることなく、高い評価を得ている石仏をガイドと一緒に巡ってみませんか。

概略説明

臼杵石仏は、阿蘇溶結凝灰岩の岩壁に刻まれた摩崖仏群のことをいい、磨崖仏(まがいぶつ)とは、自然の岩壁などに造立された仏像を指す。凝灰岩は、3~9万年前に起きた阿蘇の火山爆発で流れ出た溶岩。

石仏は、誰が何のために彫ったのかはまだはっきりしたことはわかっていないが、伝説など様々残っており、真名野長者(まなのちょうじゃ)が19才で亡くなった娘の供養のために掘ったという説や臼杵の豪族が一族の発展・繁栄のために掘らせた説(極楽浄土に行きたい、安穏に暮らしたいという思い)等があり、どちらにしても、臼杵の豪族(臼杵惟用(これもち)・惟隆(これたか)親子)の経済力は相当あったと考えられる。経済力の根拠としては、次の説が考えられている。

  • 自分たちが開発した土地を藤原家や九条家の貴族に寄進していた。寄進したのちは、荘園の管理者として財力を高めた。
  • 海が近く、貿易が盛んだった。
  • 水銀を使って金を生成する技術を持っていたといわれている。
  • 真名野長者の黄金伝説が残っている
  • 石仏を掘った人は、京都の仏師に習って地元の仏師が掘ったあるいは円派の仏師の集団が掘ったといわれている。

京都大学の教授で、ノーベル賞受賞の湯川秀樹の父親小川琢治が明治時代に調査し、大正時代に世に広まり、またスウェーデンの皇太子が大正15年に来たことも臼杵石仏が広まった大きな要因の一つだそうだ。

全61体全ての摩崖仏が国宝に指定されているが、昔はもっとあったのではないかとのこと。これだけのものができるということは、当時の豪族に力があったことを示している。観光客数は、年間11~12万人だそうだ。

神仏習合の教えで、神社もあるし、仏様もあるが、何の宗派という考え方はないのが、この臼杵石仏だ。だが、天台宗の教義に法っているのではないかと思われる。

ホキ石仏第二群

観覧券集札所を入り、最初に出てくる石仏群が、ホキ石仏第二群。ホキとは険しい崖という意味で、そのまま地名になっているそうだ。最初の石仏の九品の弥陀(くぼんのみだぞう)とは、9体の阿弥陀様がいるということで、極楽浄土へ亡くなった方を導くお姿を現している。阿弥陀様が極楽浄土の主といわれていて、どんな人でも9つある極楽浄土に導いてくださるというありがたい仏様だ。

続いて出てくる石仏は、両側に観音菩薩と勢至菩薩を従えた阿弥陀如来三尊像だ。老年期のお姿を現しているといわれている。如来とは、真の悟りを開いた方・真理を悟った者で、菩薩とは、悟りを求める者のことを言うそうだ。

石仏は、平安時代から鎌倉時代の100年くらいかけて、のみとかなづちだけで掘られたといわれている。九品の弥陀像(くぼんのみだぞう)はお弟子さんクラスが掘った。阿弥陀三尊像は師匠クラスの掘った作で、3体揃ったものとしては最高傑作ともいわれている。湿気が多くなる6月ごろになると、石仏の色が浮き出てくるそうだ。約8色ほど使われていて、赤はベンガラで混ぜた色も使っている。

ホキ石仏第一群

ホキ石仏第二群を過ぎ、山道を少し上がっていくと、ホキ石仏第一群が現れる。

地蔵十王像

中央に地蔵菩薩を配し、両側に閻魔大王に仕える十人の王様がいる。一七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百か日、一周忌、三回忌を表す王様で、極楽か地獄かどちらに行くか決まる。道教の世界では、四十九日の泰山王から仮の判決が下るが、そこから真剣に供養すると本来地獄に落ちる人も高い世界に行ける可能性があるといわれている。道教は中国三大宗教のうちの一つ(儒教・仏教・道教)だそうだ。

この像は、鎌倉時代に造られたもので、臼杵石仏の中では新しいもので、色が一番残っている。地蔵菩薩は、右足を座し左足を立てている半跏像で珍しい。ここで場合によって、面白い話が聞けることがある。

如来三尊像(ホキ石仏第一群第三龕)

金剛界の大日如来を中央に配し、右に釈迦如来 左に阿弥陀如来が並んでいる。看板に、「伝」とあるのは、たぶんそうだろうということだそうだ。仏像の下の四角とか丸の穴の中に、願文や写経したものを納めたところで、昔は木のふたがあった。

真ん中の大日如来像は宝冠をかぶっているが、冠に5人の仏様の絵が書かれている。五仏宝冠とか五智宝冠といわれているもので、五智円満を象徴する五仏をかたどった冠とのこと。絵がはがれてしまって来ていて、年々見えなくなってきている。胸の前で左手の人差し指を立て、その人差し指を右手で握る形をしているのは、智拳印(ちけんいん)と言い、金剛界の大日如来だけがする手の形で、仏様の悟りを表している。

如来三尊像(ホキ石仏第一群第二龕)

こちらの阿弥陀如来像には、口ひげやあごひげがあり、威厳がある壮年期の姿を現している。阿弥陀如来を中央に、左に薬師如来・右に釈迦如来と、3体如来が並ぶことはまずないそうだ。普通は、真ん中に如来が来ると、両側に菩薩が来ることが決まりだが、なぜかという理由の一つは、現代(釈迦)、過去(薬師)、未来(阿弥陀)を表しているそうだ。もう一つは、正法(正しい生き方・悟りを教えてくれる人がいたので、善い行いをする人が多くよい時代だった)、像法(お釈迦様がいなくなり、仏像に手を合わせて行いを正すが、半分は悪いことをする人がいる)、末法(仏の教えが廃れて乱れてしまう)という時代を表していて、末法になって悪くならないようにと、この石仏が造られたのではないかとのこと。

薬師如来は、薬壺を持っている姿が多いが、壺がないので持って帰って飲んだとも言われている。左端には愛染明王がいる。愛染明王は、愛のキューピットの日本版で、恋愛を成就させてくれる。

如来三尊像(ホキ石仏第一群第一龕)

こちらの仏様は青年期を表していて、目をとじて修行をしている。摩崖仏は、大分県が日本一多い県だといわれ、88か所に300体以上あるといわれている。国宝になっているのは、臼杵石仏のみである。

山王山石仏

中央に釈迦如来像、左に阿弥陀如来、右に薬師如来を配し、顔を見ると、子供の顔をしている。石仏の中で、一番硬く掘りにくかったそうで、他の石仏は仏師さんが掘ったが、ここの石仏は地元の石工さんが掘ったのではないかといわれている。石仏群の中で高い位置にあり、一番遅く発見されたため、隠れ地蔵といわれている。

伝釈迦如来と書いてあるが、専門の方からお釈迦さんではないのではないかといわれている。なぜかというと、次のように考えられている。

  • 金剛界ともう一つの胎動界の大日如来像ではないかという説
  • 【ガイドさん説】盧舎那仏(るしゃなぶつ)ではないかという説。同格の如来をつくる場合、一つだけ大きいのは格の違いがある。そして一番高い所にあるということは、一番格の高い仏様ということ。また、お釈迦さんは31~35才にときに悟りを開いたので、子供のお姿はあり得ない。すでに悟りを開いた格好をしている。

山王山石仏が一番いいと、洋画家の安井曾太郎が絵を描かれた話しもあるそうだ。

振り向きの坂

昭和41年に国体があった時に、美智子皇太子妃(当時)・平成皇后が訪れたときに、今のような階段ではなく山道を歩いていたため、足をくじいたことがあったそうだ。その時、皇太子(当時)・平成天皇が振り向いて「大丈夫ですか」と声をかけたことから、「振り向きの坂」といわれているそうだ。

凝灰岩は比較的柔らかいといわれているが、のみと金づちだけで掘るのは大変な作業で、相当な力を使って仏像を造ったのではないかとのこと。相当な力とは、1. 無心で、2. 真言などを唱え、3. 気合を入れて、という意味。

古薗石仏

山王山石仏から山道を下りと、古薗石仏が現れてくる。

金剛力士像

一番遅く国宝になった石仏。他の石仏は平成7年6月15日に国宝になったが、この石仏は平成29年3月に国宝となり、全61体となった。掘り方が浅く、新しいものではないかといわれていたが、古いものだと分かり、国宝になった。仁王様2体で、阿吽の呼吸になっていて、ここに満月寺の本堂があったのではないかといわれている。

古薗石仏

古薗は地名で、深田という地区の小字名のようなもの。

密教の曼荼羅の世界を表している。多聞天は、毘沙門天と同じで、七福神の一人として北方を護る神様だそうだ。

無量寿如来は、集団に祀られた場合の言い方で、単独の時は阿弥陀如来のこと。阿弥陀如来は、死んだ人を迎えに来て極楽浄土に連れていくだけでなく、長生きしたい人がお参りすると良いとされている。

大日如来の首が以前は落ちていた。なぜ落ちたのかは、諸説あった。

  • 大友宗麟がキリシタン大名だったから首を切り落とした説
  • 廃仏毀釈の時
  • 江戸時代の時に、大きな地震が起きて落ちた(実際)

顔がきれいに落ちて、残ったのが奇跡に近い。頭には、五仏宝冠があり、宝冠が壊れて顔が助かったそうだ。修復には4年間の論争があり、賛否両論があったが、平成5年8月25日に顔をもとに位置に戻して平成7年6月15日に国宝に指定された。顔の重さは、約300kgあったそうだ。

この大日如来像は、単独のものとしては最高傑作ともいわれていたが、現在の見解は少し変わってきている。宝冠が亡くなり、小さくなったが、その大きさは、2.8mあり、弘法大師空海が最も崇拝した仏様で、最高の仏さまといわれている。

中腰になり、仏さまと目を合わせ、手を組わせてお参りするとご利益があるとされている。

最後に

石仏を掘った説としてのガイドさんの見解としては、「色々な説はありますが、当時は病気になったときや困ったとき、何をするときでも、神仏に頼るしかない時代だったから、そのために石仏を掘ったのではないか。平和な世の中へと、この臼杵の地に極楽浄土を築こうとしたのではないかと思う。」とのこと。

古薗石仏前の公園

石仏を掘った仏師の住居があったといわれている場所に、「心の小径」と言って、ハート型になっている道ができ、歩くことができるそうだ。

国宝臼杵石仏ボランティアガイドの会

臼杵石仏は、凝灰岩の岩壁に刻まれた摩崖仏群です。平安時代後期から鎌倉時代にかけて掘られたといわれていますが、誰がどのような目的で造営したのか、はっきりしたことは分かっておらず、今なお多くの謎に包まれています。平成7年6月に、摩崖仏として初めて国宝に指定され、見事な彫刻技術と仏の数では、他に類を見ることなく、高い評価を得ている石仏をガイドと一緒に巡ってみませんか。

所在地
〒875-0064 大分県臼杵市深田804-1 臼杵石仏事務所
電話番号
0972-65-3300

ツアープラン情報

ツアー名
国宝臼杵石仏
料金
ガイド無料
拝観料:
大人(高校生以上)550円
小人(小中学生)270円
※ 団体30人以上割引あり
開催日時
10:00〜15:00
ツアー時間
約1時間
予約受付
3 日前まで
お問い合わせ
国宝臼杵石仏ボランティアガイドの会
TEL
0972-65-3300
定休日
なし
営業時間
10:00〜15:00
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