羽島エリア

いちき串木野観光ガイド会は、地域密着型のガイドです。観光スポットをはじめ、歴史や地域資源を地域性あふれる魅力的なガイドで分かりやすく、面白くご紹介します。本市観光の際には、是非ご利用ください。ガイド一同、おもてなしの心を持ってご案内いたします。

見どころ・聞きどころ

  1. 薩摩藩英国留学生記念館
    幕末に、薩摩藩がおこなった英国留学のいきさつからどんなメンバーが行き、帰ってきてからどうなったかの話しは大変興味深い
  2. ゴンザ
    1700年代に、11才の少年が漂流して日ロ辞典を作ったことを知る
  3. 街歩き
    留学生が滞在した場所や歌人萬造寺斉の生誕地、漁民アパート跡などを巡る

薩摩藩英国留学生記念館

1865年4月、いちき串木野市羽島の港を出発し、19名の若者(薩摩藩士)の英国留学と帰国後の功績を後世に伝える目的で建てられたとのこと。鹿児島中央駅前広場には、留学した19名の像「若き薩摩の群像」が建立されている。

留学までのいきさつ

1. 生麦事件

1862年9月武蔵国生麦村(横浜市鶴見区生麦)にて、英国人4人一行が島津久光の行列を乱したことで薩摩藩士に切り付けられ、英国人1人が死亡した。

2. 薩英戦争

英国は幕府・薩摩に対して賠償金などを要求したが、薩摩藩は要求を拒否したため、1863年8月英国艦隊7隻が鹿児島湾に現れ、薩摩藩の汽船3隻を拿捕した。その後砲撃戦が始まり双方に大きな被害が出て、和解交渉が始まり、成立の過程の中で親密な関係が築かれ、その後の幕末の動向に大きな影響を与えていくことになる。

3. 五代友厚上申書

1864年6月ごろ、「新式器機の購入による藩産業の近代化、近代技術・知識獲得のための海外留学生の派遣、外国人技術者の雇用など」の上申書を薩摩藩に提出し、これが引き金になり、英国留学の方針が決定した。

留学

1865年2月に、視察員4名と洋学を習うために前年開校された開成所の学生を中心に選ばれた15名の留学生の合計19名を密航させることにした。視察員の中には、団長を務めた大目付や五代友厚が含まれていた。通訳には、五代が長崎で知り合った代々通訳をやっている家のものを参加させた。鎖国中の洋行は禁止のため、表向きの辞令は「甑島・大島周辺の調査」だったため、甑島に近い羽島から出ることになった。

渡英したのは4月17日で、羽島では2か月間滞在した。密航のため残された資料は多くないが、数少ない資料の中に次の言葉が残っている。

畠山義成の詩「かかる世にかかる旅路の幾度か、あらんも国の為とこそ知れ」

これは、「こういった時代にこんな旅が何度もあるはずがない、それも国の為である」といった決意の表れ

17歳の少年だった森有礼「宇宙周遊一笑中」

宇宙とは世界の意味で、世界を一笑いのうちに周遊してこようと意気込みをみせている

五代友厚とグラバーさんは長崎で知り合いだった関係で、日本から香港・上海向けに荷物を運ぶ船に乗せてもらうことになり、香港まで4日間で到着している。香港からシンガポールを経由し、ヨーロッパへは定期航路があり、その船に乗って行った。途中、スエズ運河の所まで船で行く。スエズ運河はその当時工事中だったので、蒸気機関車に一度乗り換え、地中海からまた船に乗って行った。65日かかってイギリスに着くが、旅の途中のカルチャーショックは相当なものだったと考えられている。グラバーさんの関係者がロンドンまで同行していたそうだ。

イギリスに着いてから、学生たちは一人を除いてロンドン大学で学んだ。一人長沢鼎は年少過ぎたため、スコットランドの地元の中学校に2年間通ったが、主席を取ったと当時の新聞に名前が載り、その証拠が残っている。イギリスでの生活についても、グラバーさんがお世話をしていたそうだ。

留学のその後(一部)

  • 長沢鼎(ながさわかなえ)
    留学当時は最年少の13才で、日本に戻らずアメリカに渡り、カリフォルニアでワイン製造をおこない、「ぶどう王」と呼ばれるほど成功を収めた。
  • 町田久成
    大英博物館などに感銘を受け、文化財の保護に力を注ぎ、帝国博物館初代館長になった。
  • 畠山義成
    8年にわたり留学し、東京大学の前身の東京開成学校の校長などを勤めた。
  • 村橋久成
    北海道の開拓使で農業に関わる事業を次々おこない、中でも醸造事業ではサッポロビールの前身となる麦酒醸造所の設立に貢献した。
  • 森有礼(もりありのり)
    初代文部大臣として、日本の教育制度の充実に力を注いだ。

2階展望デッキ

2階のデッキに出ると、当時の船から海を見た風景に見立てた景色を望むことができる。当時はグラバーさんが用意した船が沖合に着くと、小舟で沖合まで行き、それに留学生たちが乗り込んだそうだ。

町並み散策

羽島浜中港

弘化4年(1847)に,当時20歳で郡奉行書役助(河川土木方書役助)を務めていた西郷隆盛が,萬福池築造工事のため串木野に来ていたときに,その工事余剰金をもって羽島漁港を改修したといわれていて、 “玉石積み”の技術が,ここ羽島漁港の防波堤にも生かされており,当時の薩摩藩の技術の高さを感じることができる。

漁民アパート

昭和41年6月に125世帯が焼ける大火があり、狭い道に多くの店舗があった。当時はほとんどの男はマグロ漁船に乗っていて、女性だけで消火に当たったが、犠牲者はひとりも出なかったそうだ。

大火の翌年に店舗をテナントとした4階建ての鉄筋コンクリートのアパートができ、当時の漁村としては珍しかったが、耐震対策がしていなかったので、現在は壊されて残っていない。鹿児島で町歩きのプロとして活躍している東川隆太郎さんが推奨する「隆太郎的世間遺産」の看板が立っている。

薩摩留学生遺跡(藤崎家)

2つあった宿舎のうちの一つで、14~15名が泊まっていた。

薩摩留学生遺跡(川口家)

当時は2階建てで、幹部会議はここの2階でやっていたそうだ。

歌人・萬造寺斉(まんぞうじひとし)生誕の地

萬造寺斉は、1886年(明治19年)この地に生まれ、東京帝国大学に進み、与謝野寛の弟子となり、京都の自然を愛し、全国の山を歩いた歌人。大きな地主の家の生まれで、当時は2階建ての建物があり、後年は羽島の教員を間借りさせていたそうだ。

山岳の歌人と言われているが、地元の人たちからは望郷の歌人だと言われている。

羽島崎神社には、1960年(昭和35年)に望郷歌3首の歌碑が建立された。

「行かまほし 悩みいたづき 振りすてて 南の海辺 とおきふるさと」

「ふるさとや 海のひびきも 遠き世の こだまの如し 若き日思えば」

「ふるさとの 浜の砂原 小石原 生きてふたたび 踏まむ日なきか」

現在、萬造寺斉顕彰「黎明の地ふるさと短歌大会」が毎年開催されている。

羽島崎神社

旧暦2月4日(今はその日に近い日曜日)に、 太郎太郎祭というお祭りがある。五穀豊穣と大漁祈願・航海安全を願い、そして5歳の男児の成長を祈願するお祭りだそうだ。

祭りの時は、なぜかあまり天気が良くないことが多いらしい。

ゴンザ神社

ゴンザは、鹿児島の漁師の子として1718年に生まれたが、はっきりした出生地はわかっていない。11才の時に大坂に米を運ぶため、父親とともに船に乗り込んだ。途中嵐に会い、半年余り漂流したのち、カムチャッカに上陸した。しかし上陸後に乗組員17名のうち、ゴンザとソウザの2名だけ生き延びた。その後、当時の首都のサンクトぺテルブルクに行き、16才のときにアンナ・ヨアノヴア女帝に拝謁し、ゴンザが流ちょうなロシア語を話すことに感銘したので、ロシア語文法を学ばせ日本語教師になった。その後、12000語に上る露日辞典「新スラヴ・日本語辞典」を著したが、21才の若さで亡くなった。

1960年に当時九州大学教授だった言語学者の村山七郎氏がロシアで開かれた国際東洋学者会議に参加した時に、その辞典に出会ったことが、この話しを知るきっかけになったそうだ。その後、研究を重ね、言語学会で発表、関連図書の出版、講演会などを通して世に知れ渡るようになったとのこと。

村山先生に師事していた橋口満氏が、辞典12000語を調べていくと、言葉の一部に羽島の方言と一致する部分があり、羽島出身の可能性が高いとなった。地域の人と共にロシアのサンクトぺテルブルクまで行って、埋められていたであろう場所の石を持ってきて、2011年6月26日にゴンザ神社を建立し、そこに納められた。

サンセット

海岸は西に向いているので、サンセットは最高だそうだ。

いちき串木野観光ガイド会

いちき串木野観光ガイド会は、地域密着型のガイドです。観光スポットをはじめ、歴史や地域資源を地域性あふれる魅力的なガイドで分かりやすく、面白くご紹介します。本市観光の際には、是非ご利用ください。ガイド一同、おもてなしの心を持ってご案内いたします。

所在地
〒896-0052 鹿児島県いちき串木野市上名3018
電話番号
0996-32-5256

ツアープラン情報

ツアー名
羽島エリア
料金
1グループ 1,000円(団体は要相談)
※ 施設利用料金などは実費負担
※ 薩摩藩英国留学生記念館
 大人(高校生以上) 300円
 小人(小・中学生) 200円
 団体割引(20名以上)
 障害者手帳お持ちの方 50円割引
開催日時
9:00〜17:00
ツアー時間
60分程度
予約受付
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お問い合わせ
いちき串木野観光ガイド会
TEL
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定休日
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