敵中突破!関が原合戦と島津の退き口

1600年9月15日(新暦10月21日)午後、関が原合戦で西軍が総崩れになる中、最後まで戦場に残っていた島津義弘隊は、敵中突破による前進退却を敢行し、多大な犠牲を払いながらも大将の義弘を薩摩に帰国させることに成功させたこのことを、世に名高い「島津の退き口」という。

「敵中突破!関が原合戦と島津の退き口」概略説明

1600年9月15日(新暦10月21日)午後、関が原合戦で西軍が総崩れになる中、最後まで戦場に残っていた島津義弘隊は、敵中突破による前進退却を敢行し、多大な犠牲を払いながらも大将の義弘を薩摩に帰国させることに成功させたこのことを、世に名高い「島津の退き口」という。

  1. 西軍の本拠地だった大垣城の見学
    前日14日の杭瀬川の戦いの説明
  2. 西軍が大垣城から関が原に入った道をたどる
    話しを聞きながら車で移動(写真なし)
  3. 関ヶ原の島津義弘隊の陣地
    徳川家康東軍本陣との距離を体感
  4. 烏頭坂での戦い
    義弘隊陣地からどの様に移動したか
    なぜここが戦いの舞台になったのか
  5. 牧田上野での戦い
    なぜここが戦いの舞台になったのか
  6. 勝地峠
    ここで東軍の追手が終わった
  7. 島津義弘の甥島津豊久の最終地
    烏頭坂で手負い、白拍子谷(しらべしだに)で自刃
    当日は雨で下がぬかるんでいるため、墓に訪問

※ 昼食として、地元の人たちが作っている「敵中突破」弁当をいただく。
※ 全て回った後、地元の特産品を置いている「あめんぼ」に寄る。

大垣城

1500年頃出来た大垣城は、その後何度か改築されている。関が原合戦の頃は、伊藤盛宗が城主として西軍に参加したため、石田三成らが入城して西軍の根拠地となった。江戸時代に入り、戸田藩となり、10万石だったそうだ。

太閤槍

太閤槍の展示がしてあり、通常の槍に比べて60㎝長く、関が原合戦にも使われたが、実際は重いので、取扱いが大変で必ずしも有利ではなかったらしい。

杭瀬川の戦い

大垣城から直線距離で約4kmにある美濃赤坂の岡山(現勝山)に徳川家康が入り、旗が立ち、石田三成たちは思ったより早く入ったと思った。杭瀬川の戦いは、関が原合戦前日の1600年9月14日(新暦10月20日)に行われた。石田三成の家臣嶋左近が、岡山と大垣城の中間にある杭瀬川をわたって徳川軍を攻めた。西軍は杭瀬川の手前で隠れておき、川を渡った西軍の軍隊はわざと負け、東軍を杭瀬川に誘い込み、十の字型で待機していた西軍が東軍に勝った。関が原合戦で唯一勝ったのが、この杭瀬川の戦いとのこと。その後、軍議を開き、徳川家康の陣営が整っていないから、夜襲をかけ、今攻めるべきだと島津義久らは進言したが、石田三成が認めなかったので、島津隊は戦意を喪失してしまった。大垣市上石津町牧田で戦死した島津義久の家来で、阿多長寿院盛淳(あだちょうじゅいんもりあつ)がこの14日に到着したのを、島津義弘はものすごく喜び、 太閤殿下からもらった陣羽織をプレゼントしたという逸話が残っている。石田三成も喜んで、軍配をプレゼントしたそうだ。

徳川家康は攻めるのに時間がかかると、豊臣秀頼が大坂から出陣してきて、西軍の士気が上がるだけでなく、東軍の中にも秀頼の息がかかった人がいて、西軍に対して戦うことができなくなるということから、美濃赤坂の岡山から西へ行くと言い、石田三成を大垣城からあぶりだそうとした。その策にまんまと乗っかり、石田三成は西へ行くのを防ぐために、14日の夜中に関が原に向かったというのが今のところの通説だそうだ。大垣城は難攻不落の城で、そのまま留まっていたら、結果はどうなっていたかわからないとのこと。 

天守台

ガイドさんが指をさしているあたりが、徳川家康が陣を構えた美濃赤坂の岡山という山があった所。関が原合戦に勝ち、勝山(おかちやま)に名前が変わったそうだ。

その後徳川家役が大垣城を攻めたときの「おあむ物語」として語り継がれている話しもあり、大垣城内で展示コーナーもあった。

石垣

石垣は江戸時代に造られたときのままで、近くにある金生山の石灰岩が使用していて、海藻などの化石があり、石垣ファンから今注目されているそうだ。  

大垣市郷土館

大垣市郷土館と道路の間の外塀は、船板を利用してしたもので、かつての大垣市が水門川を利用した水上交通が発達していた往時を偲んだものだそうだ。

大垣市郷土館の中には、関が原合戦絵図屏風の写しがあり、関が原合戦当時の状況がわかる一品が展示されている。

大垣城~関が原

西軍が、大垣城を出て関が原に向かった近い道を進む。大垣城を出て、県道31号線を走り、 美濃街道から養老街道を進むが、実際は、養老街道を避けて進んだため、もう少し東の道で、道幅2mちょっと(7尺道)の道を使用したそうだ。その道に入ったのが、夜10時ごろで、先頭は石田三成で各大名が続き、雨の中を総勢2~3万人進んだとのこと。島津隊は1500名で、もっと連れて来る予定(5000人くらい)だったが、毛利家が九州を制圧しようとしていたため、薩摩藩を固める必要があり、連れてこれなかった。そんな中、前日にようやく阿多長寿院盛淳がようやく30人連れてきたそうだ。

関が原合戦で西軍が負けた理由の一つとして、雨の中の移動に時間がかかり、まともに食事をとってなく、白米を水につけて量を増して食べただけなので、力が発揮できなかったのではないかといわれているそうだ。養老街道横の道から杭瀬川につながる川を越えて西に向かい、南宮山南の道を行き、養老サービスエリアの横を通る道を行く。九里半街道横の山ぎりぎりの道を進み、大垣市上石津町牧田地区あたりを3時ころ通過し、関が原に着いたのは6時ころとのこと。

関が原

島津隊陣地跡

西軍は、朝6時ころに着き、小高い山の笹尾山に石田三成が陣を張り、その前に島津隊は陣を張った。現在の陣跡の一角には、踏破隊の石碑があり、毎年夏に鹿児島から小学校5年生以上の子供が15人程度来ていて、60年以上重ねているそうだ。

島津隊は、前日の夜襲を断られたため、戦意喪失していたため、敵が来た時だけ戦ったとのこと。西軍の負けが確定した時に、軍議を開いて、島津義弘は死ぬ覚悟だったが、家来(豊久たち)がなだめて退去することになった。敵中突破を図り、目の前の徳川家康の陣に突っ込むようにして、右に折れて烏頭坂方面に向かった。1500人いた部隊が、敵中突破する時は、500人くらいになっていたそうだ。

西軍島津隊の敵中突破

東軍本陣(徳川家康隊)の南にある小川(なしのき川)の川沿いに進み、川の向こう側にいた福島隊は動かず、その奥の小早川隊は手柄を立てるために追いたかったが、前に福島隊がいたため追うことができなかった。東軍についた豊臣家の家来は動かなかったということだそうだ。その小川は、関が原インター付近(直線距離で2km弱)では大きな渓谷(20m)になっていて、退却するにはうってつけの地形だったようだ。東軍で追ったのは、徳川家の家来の井伊直政と松平忠吉で、敵中突破して退去することは普通ないので、びっくりしたそうだ。

敵中突破後1

烏頭坂の戦い

関が原ICから1km弱南に下ったところにある烏頭坂が一番の難所だった。(島津隊の陣地から3km弱の距離)島津義久の甥の島津豊久が大将を逃がすためにしんがりを務め、30人ほどの軍勢だったそうだ。

島津豊久がどこで亡くなったかはいくつかの説がある。

  1. 烏頭坂でなくなったという説は、元々の関が原町の説で、朝鮮通信使が書いた1607年の記録の中に、大将の弟の豊久がこのあたりで自害して亡くなったと書いてある
  2. 関ヶ原駅から100m西に行ったところに本陣があるが、そこで亡くなったというのが最近出てきた説で、本陣前に豊久が乗っていた馬がいて、血がついていたという文書が出てきた
  3. 大垣市上石津町多良地区の白拍子谷で自刃したという上石津説(今回はこの説を採用)

現在の烏頭坂は開けているが、昔は烏頭山という小高い山で、南宮山のすそ野との間が狭くなっていて、攻めてくる方は何千の兵に対しても、対等に戦える地形だった。さらに進む先は流れ谷という谷になっていて、なしのき川と藤古川が合流していて、このあたりでも川の高低差は20mくらいになっている。

その時の戦法は、道の両サイドに分かれて草むらに隠れ、座禅を組むようにして座る(矢に刺されても倒れないようにする)。まずは鉄砲で応戦し、鉄砲は弓矢の代わりに使ったのではなく、槍の代わりに使った。近距離で100発100中で先頭の人が倒せば相手はひるみ、時間を稼げる。鉄砲は1発のみなので、次は槍で戦い、その次は刀で戦った。退却する途中で小部隊を留め置き、追ってくる敵と死ぬまで戦って足止めし、捨てがまり(奸)という本隊を逃がす島津隊独特の壮絶な戦法で戦った。

下の写真のベンチは、令和2年に復元された鹿児島鶴丸城の城門(御楼門)の部材に使用するため、上石津町のケヤキを寄付したお礼に、寄付いただいたもので、薩摩ベンチと名付けられている。

江戸時代、木曽三川の宝暦治水工事で薩摩藩の人たちに多くの犠牲者が出た一方で治水工事により、洪水が少なくなり、実り多い土地となった。その感謝を兼ねて、岐阜県と鹿児島県は姉妹県盟約が結ばれている。

昼食

地元の食材や鹿児島のお肉を使用し、地元の方々が作った敵中突破弁当をおいしくいただく。

敵中突破2

牧田上野の戦い

次の戦いの場所が、大垣市上石津町牧田地区上野の牧田支所横だといわれている。烏頭坂から直線距離で2km弱の場所になる。この先は、崖になっていて、養老山地をはさみ、東側に伊勢街道、西側に伊勢西街道がある。伊勢街道を進んだ島津義弘本隊や伊勢西街道を進んだダミー隊(島津豊久隊)の動きを見ながら敵と戦ったのではないかという話しを聞く。ここで戦ったのが、家老だった阿多長寿院盛淳で、盾となって本隊を逃がす役割を担い、討ち死にし、そこには石碑もある。

敵中突破3

牧田~勝地(かちじ)峠(直線距離で5km弱)

ここから島津義弘本隊は、養老の東側を通る伊勢街道を行き、島津豊久の隊は伊勢西街道を行く。井伊直政の東軍は、伊勢西街道の隊を追った。

ちなみに、栗原山にいた長曾我部盛親軍も伊勢街道を退却し、南宮山にいた毛利秀元軍はどうどうと中山道を通って大坂城に向かったそうだ。

牧田支所から崖を下った辺りは、当時は原っぱで、麦作が中心におこなわれていて、麦房神社や麦草神社と言っていた神社名が近くにある。麦はまいておけば実るので、水の心配がなかったとのこと。

島津義弘本隊は伊勢街道横の山の裾を通っていったそうだ。

島津豊久隊が行った伊勢西街道沿いにある(大垣市上石津町一之瀬地区)上石津中学校を整地する時に、当時の墓が出てきているので、このあたりでも戦いがあったとのこと。井伊直政隊は、勝地峠まで追っかけてきたが、ここらあたりで徳川家康から撤収命令が出たらしい。勝地峠は、昔は歩路(かちじ)峠と言っていたそうだ。

島津豊久最終地

上石津郷土資料館

上石津町多良地区にある郷土資料館は、西高木家の陣屋跡に建てられていて、江戸時代、高木家は4300石の交代寄合という旗本で、木曽三川の治水行政にあたっていたそうだ。また多良地区は、明智光秀の生誕地の一つとされている。

郷土資料館には、関が原合戦の地図の一つ「濃州関が原戦場之図」(1841年作成)の写しがあり、この図は関が原合戦前の8月中旬から9月15日までの移動や布陣・戦況などの状況が説明されている。島津軍の通ったコース(背進路)も記載されていて、島津義弘本隊は、伊勢街道から現在の三重県海津市南濃町の駒野という部落から二ノ瀬峠を越えて、岐阜県大垣市時山地区あたりで豊久隊が合流し、時山~五僧~ホウヅキ(保月)~多賀(江州街道)を通り、大坂城で姫を連れ出して薩摩に帰ったとのこと。途中ホウヅキ(保月)あたりで、織田秀信家臣の小林新六郎に出会い、多賀まで道案内してもらったそうだ。9月15日の夜から朝にかけては雨が降っていたが、15日の夜になると晴れて、峠道も月明かりで歩けたのではないかとのこと。

三輪内助さんというこのあたりの名主(樫原村)が島津豊久を丁重に葬り、瑠璃光寺に位牌がある話しが島津藩に伝わったのは、1789年のことだ。三輪内助さんの子孫の孫太夫とのやりとりがあり、その当時書いた古文書が出てきた。200年近く表に出なかったのは、徳川幕府に分かるとまずかったのではないかとのこと。島津豊久公が白拍子谷という場所で自刃していて、亡くなっているのを三輪内助さんが見つけて葬り、それをお寺でずっとお守りしているということが書いてあったそうだ。その後、島津家が参勤交代の時に確認に来たとのこと。お寺の名前はもともと薬師寺だったが、江戸時代に瑠璃光寺に名前が変わったそうだ。

敵中突破 れきしの里(大垣市上石津町上多良地区)

この地に着いたのは、夕方(17時~18時ころ)で、人数は10数名ではなかったかとのこと。

島津豊久が自刃したという白拍子谷は、雨で道がぬかるんでいるため、見学した日はいけなかった。

三輪内助(入道一斉)の墓

三輪内助さんの墓は、大垣市上石津町多良地区樫原という所にあるが、古文書を見ると樫原村になっている。島津豊久の位牌を当初守っていた薬師寺の跡には、げんざいは津島神社が建立されている。その横には、三輪内助入道一斉のお墓があり、文献ではお屋敷の上にお墓を建てたと書いてあるそうだが、今はその面影はない。三輪内助さんが、87才にときに島津豊久公を葬り、90才で亡くなったとのこと(1603年)。そのことも子孫の三輪孫大夫という人が、文献で残している。

瑠璃光寺

瑠璃光寺の入り口には、島津豊久公菩提所と書かれた石碑があり、本堂には島津豊久公と三輪内助さんの位牌があるが、本日は法要準備のため、本堂内に入って位牌を見ることができなかった。

本堂の横には稲荷神社があるが、お稲荷さんは島津家の守り神といわれているそうだ。島津義弘公が朝鮮出兵の時に、泗川(しせん)城を作って2千の兵で守っていたが、朝鮮兵10万の大軍が押し寄せてきた。2匹の狐(赤・白)がどこからともなく現れて、火薬庫をひっくり返して、爆発させて大軍を追い払ったという話しがあるとのこと。そのうちの1匹が亡くなり、日本に亡骸を連れて帰り、祀ったことから稲荷神社ができたそうだ。

島津豊久公の墓

島津豊久公の墓には、三輪内助さんが骨の一部を埋めたといわれている。墓と同じ敷地には、鹿児島県が建てた石碑がある。こちらの墓の横にも、稲荷神社があった。

関が原合戦後、島津義弘公の家来で川口文衛門がこちらに訪ねてきて、三輪内助さんに確認し、豊久公が亡くなった事実を知ったが、川口文衛門さんは薩摩に帰っていないので、この事実が島津家に伝わっていないという話しもあるそうだ。

最終的には70人ほどの人が薩摩に戻ったが、豊久隊で帰ったのは、ほんの数人ではないかとのこと。

その他

最後に、地域の特産品を置いてある「あめんぼ」に寄り、買い物をする。

九里半歴史文化回廊

九里半街道は、揖斐川の支流である牧田川上流の船附・栗笠・烏江の濃州三湊(岐阜県養老町)から米原の朝妻湊まで至る街道で、距離がおよそ九里半(38km)あることから九里半街道といわれた。水運と陸運を利用して、名古屋や伊勢方面の荷物を関西・北陸方面へ一番短く、早く、安く運べるルートであった。2軒の問屋(五井家)のある所が中心地となり、江戸時代栄えた。また、関ケ原の南に位置する大垣市上石津町牧田地区は、関が原合戦の舞台の一つとしても有名である。西軍だった薩摩の島津隊が負けを確信して、隊を退くのに敵の大軍の中を突破して薩摩に生き帰ったという話しがあり、その合戦の舞台となった地域である。

所在地
〒503-1602 岐阜県大垣市上石津町牧田4025-5
電話番号
0584-47-2301

ツアープラン情報

ツアー名
敵中突破!関が原合戦と島津の退き口
料金
1~20名 ガイド1名1,000円
21名以上 ガイド1名追加
開催日時
10:00〜17:00
ツアー時間
60〜120分
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
九里半歴史文化回廊
TEL
0584-47-2301
営業時間
10:00〜17:00
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