国指定史跡・岡城跡

戦国時代、薩摩の島津義弘が3度にわたり攻撃しますが、落とすことができず撤退。その後、この地を治めた中川氏によって、奥豊後の山深く、断崖絶壁の地に、天高くそびえ立つ高石垣。広大な敷地に広がる山城『岡城』は、総石垣のまさに「難攻不落の堅城」です。雄大なスケールの石垣と四季折々に変化する自然が織りなす唯一無二の景色を、ガイドと共に巡りませんか。

岡城跡

大友氏の重臣志賀氏が城主だった岡城は、1593年に領地没収になり、中川氏が1594年に播磨国三木城からやってきて、2年半かけて城を大改築した。7万石の規模に対して、崖の上にそびえ立つ立派な城だ。岡城跡の看板がある所は、大手門の下になる。

大手坂上り

階段のある登りに入ると、早速立派な石垣が現れてくる。崖になっているので、自然の岩と石垣を組み合わせていることがわかる。しかし、地震が多く、そのたびに石垣を積みなおしたそうだ。江戸時代、石垣を含めた改修工事には幕府に許可が必要で、30回くらい修復工事の届け出が出された。

大手門跡

大手門の石垣の上には、櫓が渡されていて、櫓上から敵を攻撃できるようになっていた。現在残る石垣や礎石・車敷などから、大手門の大きさがわかる。1612年に、築城の名人といわれた藤堂高虎が岡城に立ち寄った時の意見を受けて今の大手門の形になったそうだ。

岡城 概要説明

大手門を過ぎて少し歩くと、看板が出てくる。宝暦御城百景図という1750年代に書かれたものがある。実際と比較すると、省略されている部分もあるらしいが、その当時をしのぶことができる。

家老屋敷跡1

看板を過ぎると、広い空き地が出てくる。家老の中川但見屋敷跡だそうだ。大手門と三の丸の間にあり、こんなところに家老屋敷があったのかと思うが、お殿様の中川家一門と聞き、納得した。片隅に三木氏から贈られた中川氏ゆかりのクロマツが植えられている。

本丸ビューポイント

崖越しに本丸方面を見ると、天空の城ラピュタのように、崖にそびえ立つ城の風景で素晴らしく感じた。写真にするとその日の黄砂の影響か少しかすんで見えるのが残念な気がする。高いクスノキのある辺りが本丸跡になる。

右側の谷の深さは約40mあり、よくこんなところに建てたと感じる。

もみじの名所跡

もみじの咲く時期には見事な色を付けて咲いていたが、もみじの根っこが崖の石垣を痛めるという理由で木は伐採されてしまったとのこと。

太鼓櫓(たいこやぐら)門跡

本丸の入り口で、城内で最も重要な門だが、木の根っこが石垣に食い込んでいるのがわかる。

真ん中の六角形の石を中心に、花びらのようにまとめてあるように石垣が造られているのは、石工さんの遊び心ではないかとのこと。

大きな岩に合わせて、回りの石をきれいにそろえてあるのがよくわかる。

天守閣

明治元年に撮られた写真を見せてもらい、明治7年の解体までは天守閣があったと聞き、今あればという思いがなおさら出てくる。解体された理由は、無人のお城が一揆や立てこもりに使われるとこまるという理由から陸軍省から廃城令が出たためだそうだ。

写真は、江戸時代の武具庫の壁の跡である。石灰・砂利・粘土をこね合わせて強度を出していた。

三の丸側のビューポイント

九重連山が正面に見えるらしいが黄砂の影響で全く見えないのは残念とガイドさんがいい、代わりにその風景の写真を見せてもらう。

石垣を積上げてある崖を見ると、柵もなく、びっくりする。実際には、大きな岩の上に石垣を積上げているそうだ。

空井戸跡

深さ約73mの深さがあることだったが、数年前に調査したら35mで行き止まりだったそうだ。実際には、水が出ず、使われることはなかった。だからと言って、何か隠してあったり、どこか抜け道があったとかいうこともなかったとのこと。

二の丸城跡

滝廉太郎の銅像がある。滝廉太郎は、東京で生まれ、移転5回目の地として竹田に来て2年間過ごす。その後、東京音楽学校に行き、21才の時に「荒城の月」の作曲にあたり、文部省に請われてドイツに留学し、わずか2か月間勉強しただけで、結核にかかり帰国した。そして、大分市で療養したが、23才でこの世を去った。

その銅像の前で、ガイドさんのハーモニカの演奏を聴く。

水源について

先ほどのように、井戸を掘っても水が出ないため、深さ90mの地獄谷の谷底まで降りて、桶で水を汲み上げていたそうだ。そういう意味で、火事が一番怖かった。1771年に西の丸から出火し、全焼したことが1回あり、8年かかって修復したことがあった。

二の丸の風呂屋跡

二の丸には、月見櫓や御風呂屋など、特徴的な機能を持つ建物が並んでいて、来客の歓迎や藩主の愉しみの空間として利用されていた。北東の端にあった風呂屋跡の場所に、現在は来場者用に休憩場所が設けられている。風呂は蒸し風呂で今のサウナのようなもので、普通の風呂は本丸に3か所あったと図面に残っているそうだ。休憩所を2階に上がって、扉を開くと本丸に出る。

荒城の月の歌碑

荒城の月は、岡城ではなく福島県会津若松の鶴ヶ城をモデルに、土井晩翠が作詞をした。その後、文部省が作曲の応募をして、滝廉太郎が名乗り出て作曲した。

滝廉太郎と土井晩翠の出会いは、病に侵されドイツから船で帰国する途中、ロンドンに留学していた土井晩翠が船に見舞いに訪れたとき1回のみだったと地元の新聞社が伝えていた。

滝廉太郎記念全国高校独唱コンクールが、竹田市で毎年開催されている。高校生が対象で全国から参加し、1位と2位になると、その生徒さんはヨーロッパに短期留学できる特典というすごい制度がある。昭和24年から昨年で72回目の予定だったが、コロナで開催されなかったそうだ。一日も早く、コロナの収束を願わざるを得ない。ガイドさんの荒城の月の歌を聴くが、外で聞く生歌はいい。

岡城 概略説明

平安時代末期、源義経をここでかくまおうという話しがあり、緒方三郎惟栄が岡城を築城したと伝えられている。実際には、向かおうとした船が嵐に会い、尼崎から北陸・奥州平泉に落ち延びていったとのこと。

その後、大友氏一族の志賀氏が岡城に1369年に入り、220年間居城としていた。1586年に、5000人の島津軍に対して、1000人の軍勢で守り切った。しかし、朝鮮出兵で大友氏は失策により、志賀氏は除国になり、その後中川氏が280年間この地を納めた。

近戸門(通用門)から本丸に行く道

町に住む一般武士が近戸(通用)門を通り、本丸に行った道で、火事があった後、松明を焚くことができず、夜は真っ暗なので崖に落ちないように石を置いたそうだ。(列石)

埋門(うずみもん)

家老の中川覚左衛門屋敷と普請方の出入り口にある立体交差の通路。

家老屋敷跡2(中川民部屋敷跡)

基礎の石が多くあり、屋敷の大きさを感じさせる。

西の丸東御門跡

3代藩主中川久清の隠居の住まいとして、西の丸御殿が造営され、その後、政務の中心的な機能も西の丸に集約されたそうだ。

西の丸跡

西の丸には、御殿のほかに馬場や庭園などもあったそうだ。

崖の遠く先の城下町を望むと、自然の要塞だということが良く分かる。

旧大手門跡

1590年代岡城の改修工事がおこなわれてから1610年代の20年間使われていた。藤堂高虎が来て、朝陽がまぶしいと戦で不利になるとして、門の位置を変えるまで使っていた門だそうだ。

竹田市観光ボランティアガイド委員会

熊本県と宮崎県に接する大分県の南西部。九州の中央に位置する「阿蘇くじゅう国立公園」内の くじゅう連山や、その麓に広がる久住高原、ユネスコエコパークに選定された祖母山など、雄大な自然に囲まれた地域です。 市内中心部には日本百名城の一つ、国指定史跡 岡城跡があり、その眼下には武家屋敷通りなど城下町が古の面影を残します。 世界有数の炭酸泉と称される長湯温泉をはじめ、市内にはいくつかの泉質が違う温泉や、日本名水百選に選ばれた竹田湧水群も湧出しています。 自然、歴史、文化、温泉、湧水…魅力がつまったこのまちで、あなただけの竹田を旅してみませんか?

所在地
〒878-0011 大分県竹田市会々2335-1 竹田市観光ツーリズム協会竹田支部内
電話番号
0974-63-2638

ツアープラン情報

ツアー名
国指定史跡・岡城跡
料金
ガイド1名 3,000円
※時間制限はございません。
※団体30名以上の場合は、スムーズなご案内のためガイド2名以上を推奨します。
開催日時
8:30〜17:00
ツアー時間
30分〜
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
竹田市観光ボランティアガイド委員会
TEL
0974-63-2638
定休日
年末年始期間(12月29日~1月3日)
営業時間
8:30〜17:00
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