西郷どんコース

西郷隆盛宿陣跡資料館やニニギノミコト御陵墓参考地、西郷菊次郎療養の地を巡り、北川町俵野地区で西郷が何を思ったか、西郷を囲む人々の思いとはなど、さまざまな角度からガイドがご案内します。

樫山

西南戦争のとき、政府軍の大将山縣有朋が陣を取っていた樫山を延岡側から見る。

和田越え

和田峠から和田越えの戦いの舞台を見る。正面には、山縣有朋が陣を張った樫山が見える。薩摩軍約3500人・政府軍約5万人で、明治10年8月15日朝7時ごろから戦いが始まった。樫山と和田峠の間は、田が広がり、ぬかるんでいたので、藁やむしろを敷いて戦おうとしたそうだ。

西郷隆盛が陣頭指揮を執り、昼までは薩摩軍が優勢だったが、午後に入ると劣勢になってきた。薩摩軍の銃は、1分間に1発放つエンフィールド銃に対して、政府軍は、1分間に5~6発のスナイドル銃で対抗した。人数とともに、兵力の差は何ともしがたかった。

西郷隆盛陣頭指揮の地

樫山・和田越えの戦いの舞台が見通せる場所から少し上ると、決戦の地の碑がある所に出る。今は木が生い茂っているが、当時は木がなかったので、西郷隆盛が陣頭指揮を執ることができたとともに、敵陣からも見えたそうだ。 

14時ごろには、終焉となったそうだ。

西郷隆盛宿陣跡(児玉熊四郎邸)

8月15日の和田超えの戦い終了後、直線距離で4km北にある俵野地区に陣を構えた。1972年に建てられた児玉熊四郎邸で、1933(昭和8)年に、県指定史跡になり、資料館として平成2年に展示されるようになった。

西郷隆盛軍服焼却の地

薩摩軍五番大隊の一番小隊長として従軍していた河野主一郎の追想を記録した「河野翁十年戦没追想談」の中に、軍服を庭先で燃やして記述がある。河野主一郎は、最後の城山まで同行し、西郷隆盛の助命嘆願のため、政府軍に赴き捕虜になった人物。

当時、一着しかなかった陸軍大将の軍服も焼いたそうだ。

(薩摩)軍議

和田越えの戦いの翌日の8月16日の午後、薩摩軍全軍に対して解散布告令を出し、事実上西南戦争の終焉を迎えた。解散となり、上司・部下関係なく、帰るもよし、戦うもよしとなった。

16~17日にかけて、会議が開かれ、可愛岳(えのだけ)越えが決定し、17日22時に出発になった。その舞台を、人形を使って展示されている。実際におこなわれた建物での人形なので、リアリティさを感じる。

資料館

西南戦争に関わる資料・物品や行程などが展示されている。桐野利秋が泊まっていた家から本人からもらったという刀や中村半次郎の刀などが展示してある。

可愛岳(えのだけ)

政府軍が包囲する中、600人が標高728mある可愛岳の山越えを目指し、鹿児島に向かった。

先発隊、西郷隆盛のいた中軍、後軍の3隊に分かれ、先発隊が午前3時ころ峠に到着し、ラッパを鳴らして官軍をたたき起こし、不意を突かれた官軍は総崩れになり、見事に包囲を突破できたが、総勢600人の軍隊は200人ほどになった。

北川御墓参考地

陣を構えた裏手には、北側御陵参考地がある。天孫降臨の神話で知られる天孫ニニギノミコトの終焉地として伝えられ、可愛山陵(えのさんりょう)の麓にある塚は宮内庁からご陵墓参考地として認定されている。

明治7年に御陵地として認定されたが、大正15年に参考地に変わった。西郷隆盛の宿陣地に近いため、政府軍は攻めることができなかったのではないかと言われている。

西郷菊次郎加療の地

西郷隆盛の息子の菊次郎は、熊本県玉名で被弾し、延岡で足を切断した。

菊次郎は、奄美大島で生まれ、8才のときに鹿児島に引き取られ、12才のときにアメリカに留学し、17才のときに西南戦争が起きた。

西郷隆盛の奥さんのいとさんもここを訪れたといわれている。

桐野利秋宿営の地

延岡ガイド・ボランティアの会

「楽しく学んで楽しくガイド」をモットーに延岡の三山(城山・延岡城跡、愛宕山、今山)、西南の役、延岡の神話をガイド。一番のおススメは延岡城跡コース。延岡城跡は、かつての延岡七万石の城跡で、千人殺しの高石垣、130年以上も撞かれている城山の鐘、延岡最後の藩主、内藤政擧公の銅像、牧水の歌碑などが見学できます。

所在地
〒882-0083 宮崎県延岡市柚木町幸町2丁目125番地 ココレッタ2階 延岡観光協会内
電話番号
0982-29-2155

ツアープラン情報

ツアー名
西郷どんコース
料金
有料
・保険ありの時・・3,000円/ガイド1人あたり
・保険なしの時・・4,000円/ガイド1人当たり
開催日時
9:00〜16:30
ツアー時間
約90分
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
延岡ガイド・ボランティアの会
TEL
0982-29-2155
定休日
土・日・祝日
営業時間
9:00〜16:30
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