飛騨街道金山宿「筋骨めぐり」

“きんこつ”とは、飛騨地方の呼び名で細い路地が迷路のようにからみ合っている公道のこと。筋や骨のようにからみ合う人間の体に例えています。
飛騨街道 金山宿は江戸時代、4つの藩境にあたり宿場町として大変賑わいました。その名残りが映画のセットのようなレトロ感あふれる街並みを形成しています。
ミステリーゾーンには、飛騨金山版〝ハウルの動く城″も!
是非さがしてみてください!

金山宿のなりたち

今ある飛騨川と馬瀬川の合流地点が、遠い昔はもっと川下にあり、川幅も広く国道41号線あたりは川だった。現在の飛騨川の西側の家では、地下水が流れているので、少し掘ると水が出てくるそうだ。

1200年ほど前から、山で銀と銅を掘られていて、その集積場となっていたことから、金山と言われるようになった。江戸時代には鉛、明治以降ではマンガン、そして昭和に入ると、鉄を作るための触媒として使われる蛍石を採るようになった。多い時は、日本の生産量の7割が採られていた。よく光る良質な蛍石だったが、中国産に押されて衰退していった。

1200年前から飛騨街道があったが、昔は金山から渡し船で対岸に渡り(飛騨川の東側)、川の東側を行く道(飛騨古道)を通って下呂に行っていた。秀吉の時代に、飛騨川の西側に道ができ、飛騨古道の山道からなだらかな道に代わり、荷物がたくさん運べるようになった。(馬1頭で運べる量 60kg(山)・90kg(平地))

筋骨めぐりの概要

金山から飛騨に行くには、川を渡る必要があったが、川が渡れない時は泊まる必要があり、宿場町として栄えた。また、郡上藩・尾張藩(の最北端)・飛騨藩(途中から天領)・苗木藩の4つの国境地帯にあったため、敵がいつ攻めてくるかわからない緊迫の町だったので、複雑な道の多い町づくりを目指した。

街道は、荷物が運ぶ人や車の往来が激しく危険なため、生活用として裏道がたくさんつくられ、筋や骨がいっぱいある人間の体に例え筋骨と名付けられた。今でも、昔のまま道が残っていて、公道にしておかないと通ることができなくなる可能性があるため、平成15年まで国道に指定されていた。今も誰が通ってもよいが、複雑な道でどこにいるかわからなくなるので、ガイドさんと行くのが良い。

こちょこちょの木

木が堅く少し揺らすと揺れるところから、百日紅(さるすべり)の木のことをこちょこちょの木と言っていた。(こちょこちょすると笑う動作に似ている)百日紅は赤い花で長く咲く。

金山は山里だが、雪が少なく空気が乾燥しているので、子供に百日咳が流行ったため、子守地蔵尊が5か所もある。

劇場跡(郵便局)

昭和3年に飛騨金山駅ができ、川に橋が架かり、金山の町が通過の町に変わったため、泊る人が少なくなった。そこで、歓楽街になろうとして、シンボル的な建物ができた。それが劇場で、その当時の壁(昭和3年)が今も残っている。楽屋の明り取りがあり、壁の上には建物が建っていたそうだ。

劇場通りの4軒長屋

昭和3年に、飛騨金山駅に通じる道ができた時につくられた商店街で、劇場通りと名付けられている。店舗をたくさん作ろうとして、4軒長屋にして、5枚の壁で4軒店舗を作った。なぜ4軒かというと、5軒だと3対2になると揉め、4軒だと2対2だと話し合い、3対1だと1はあきらめるので、仲良くやれる理屈だそうだ。

店舗 餅幸(もちこう)

当時の面影を残す店で、行事があると餅投げをする習わしがあり、この店は黒豆大福が有名だそうだ。

筋骨ならではの家

裏道(筋骨)は斜めになっていることが多く、そこに家を建てようとすると三角の家になってしまう。

井戸

昔は2~3m穴を掘って水をくんでいたが、昭和の時代になると、ポンプ式の井戸になった。現在も残っているが、衛生上の理由で飲むことはできない。

飛騨街道

昔の街道としては道幅は広く、その理由は二つある。一つは火事対策で道を挟んで延焼しないようにすることと、もう一つは川の混雑を一時的に避ける目的とのこと。節のある木を引き上げ、次の宿場町まで行き、川に流すため、材木の陸引きがおこなわれていた。飛騨川を使って運ぶ材木は、名古屋まで3年かかるが、川が埋まるほど大量に運ぶことができる。

鎮守山

ギフチョウ

明治16年にギフチョウを飛騨金山で始めて発見されたため、岐阜にちなんだ名前が付けられた。ギフチョウは、春17℃以上になったときに蝶になり、2週間の間に、カンアオイ(寒葵)という草の葉の裏に卵を産み付けて死ぬそうだ。カンアオイは、西向きの斜面しか育たないため、育て方が難しく、絶滅の危険がある。ガイドさんがカンアオイの葉を見つけ、匂いを嗅ぐととてもいい香りがした。

卵の4月から、5月には毛虫になってカンアオイの葉を食べ、6月に入るとサナギになり、次の年まで1年間潜んでいるそうだ。

ガイドさんが撮ったギフチョウの写真を見せてもらう。(めったに撮ることができない)

両面宿難(すくな)

鎮守山は昔、飛騨川が左からそして馬瀬川が右側から流れていて、川の中州になった浮島のようだった。

仁徳天皇の時代に、力が強く、優しい顔と恐ろしい顔の両面ある所から名づけられた両面宿儺は、飛騨一円を牛耳っていた。暴力的で手は4本・1日に40km走る足は4本・身長2.1mの大男で庶民には優しいが、金を貯えると奪い取るため、金持ちや朝廷から疎ましがられていた。討伐隊が来て、生まれ故郷の丹生川で捕まり、打ち首になった。

呪術廻戦というアニメにも登場しているので、若い人が多く訪れるそうだ。

鎮守山を降りた後の筋骨

昭和の銭湯

大正時代に建てられ、昭和63年まで営業していたお風呂屋さん。狭い風呂で、6人も入ればいっぱいになるので、中腰になって当時は入っていた。中腰で入るため、長湯はできずに回転は速かった。壁のタイルは、本業(ほんごう)タイルといい、日本最初の浴槽用とのこと。貼られた状態で残っているのは珍しいそうだ。

古もん屋

町で出た古いものが集められている骨董品屋で、プロの人も買いに来るほど掘り出し物があるそうだ。

川の土手に立ち並ぶ家

パンフレットでよく紹介される景色だそうで、道と川までの幅は2m弱しかないため、2階・3階は川にせり出し、2階を商売の場として、1階は食事の場、3階は寝る所にしていた。

川沿いに住む人たちの水場

町のあちこちに水場があり、使用方法により分かれていて、奥は飲み水、手前は食器洗いや洗濯場となっている。水は下から湧いてくるので、堰き止めておくと、水の重みで湧いてくる水が止まり、堰を外すと水が湧いてくる仕組みになっている。湧いてくる水は、夏冷たく、冬は暖かいので、夏の洗い物が冷たく厳しいそうだ。

ハウルの動く城

一部川の上に家が建っていて、「ハウルの動く城」に似ているところから、写真を撮る人や絵描きにとても人気のスポットだそうだ。

金山巨石群リサーチセンター&ギャラリー

馬瀬川上流の岩屋ダム近くには、石を組み合わせ、夏至・冬至など太陽の光が入ってくる時期を特定できるようになっている縄文時代につくられた巨石群がある。平成に入ってから発見されたもので、歴史を覆す可能性があり、その紹介をしているギャラリーだ。

清水楼(せいすいろう)

明治初期の建物で、明治8年から続いた料理旅館。最初は平屋で建てられ、次に2階を増築し、そして3階をその後増築したため、通し柱がない。組み立て式で、釘が1本も使われていない。残念ながら、今は営業されていない。

飛騨街道から外れ、飛騨川・馬瀬川に出る(向かう)筋骨

伊能忠敬が飛騨測量を始めた起点

飛騨川と馬瀬川の合流地点から少し馬瀬川の上流に行ったところに架かる境橋を渡ったところに、伊能忠敬が飛騨の測量を開始した地点がある。1814年に、尾張藩から飛騨に渡し船で入り、左写真右下のマンホールの場所が開始地点で、マンホールには基本水準点と書いてある。

運気を上げるケヤキ

白山からの尾根伝いの先端には、山のパワーがすべて集まってくる。⑱のそばには、石の割れ目に根を突っ込んで伸びているケヤキがあり、山のパワーを吸い取って生きているといわれている。そのケヤキがパワースポットとなっている。

奥飛騨酒造

300年続く造り酒屋で、60年前から作られている「奥飛騨ウォッカ」は、ロシアの大統領プーチンが2016年に来日した時に飲んだお酒として有名になっている。

筋骨ガイドの会

当初はボランティアで募った筋骨案内人。 そのほとんどは飛騨街道沿いに住居を構え、昭和の息吹を今に語り伝えるベテランガイドからIターンガイドまで個性豊かな面々が、飛騨街道・金山宿の「筋骨」をご案内します。

団体窓口
金山町観光協会
所在地
〒509-1614 岐阜県下呂市金山町大船渡679-1
電話番号
0576-32-3544

ツアープラン情報

ツアー名
飛騨街道金山宿「筋骨めぐり」
料金
1~6名様 2,000円
7名様以上 おひとり様 300円
開催日時
お気軽にご相談ください
ツアー時間
最短60分コース
おすすめは、90~120分コース
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
金山町観光協会
TEL
0576-32-3544
定休日
不定休
営業時間
9:00〜16:00
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