郡中(ぐんちゅう)の町並み見学まち歩きコース

瀬戸内海に囲まれ、豊かな風土に彩られる伊予市。なかでも中心街の郡中(ぐんちゅう)と呼ばれるエリアは懐かしい町並みが残り、散策がぴったりです。穏やかな伊予灘の風を感じながら、ノスタルジックな町歩きを楽しみませんか。

概要

江戸時代初期は松山藩領だったが、1635年に大洲藩領に変わり、民間主導による自普請という特異な形態で灘町を作った。江戸末期には大洲藩主布達により郡中(ぐんちゅう)と改称し、萬安港(現伊予港)の完成と共に交易が栄え、醸造・油・金融・陶器・海産物・和紙・製材業などの産業が発展、独特な町人文化が形成されていった。

岡部仁左衛門の銅像

大正時代、郡中で「花かつお」製造を最初に始めた人の銅像。伊予市にはかつて御三家と呼ばれた花かつお製造会社が3社創業しており、現在でもそのうちの2社が花かつお製造全国シェア1位2位で、全体の50%を占めている。

山惣(やまそう)商店

1860年に旅籠屋として建てられた建物で、現在は醤油や肥料を販売している。建物内部は建築当時の間取りのままで、土間の奥には木製でできた電話ボックスも見受けられる。

彩賓館

明治27(1894)年に松山の道後温泉本館に対抗し、公会堂的な集会場として建築された。1984年に改築、現在は町のサロンとして利用されている。屋根組が木造のトラス工法(三角形を基本単位としてその集合体で構成する構造)で当時としては疑洋風の珍しい工法で造られている。

明治42年伊藤博文公歓迎会場などにも使用され、書や絵付け茶碗などが展示されている。

さざえ堀

彩賓館の一角にあり、1812年に港を築いたときに作られた井戸で、海水の動きに合わせて上下するので、潮の干満が分かるように設計されている。さざえ堀は、さざえの形に似ているところから名付けられた。

五色浜神社

明治4(1871)年、灘町にある法昌寺境内の住吉社を神仏分離令により五色浜の地に遷宮。同42年、天神社を合祀し五色浜神社に改称した。拝殿の扁額の文字は、伊藤博文が郡中を訪れた時に書かれたものだ。

五色浜

五色浜の語源は、源平合戦で敗れた平家の5人のお姫様がこの浜にたどり着いた後、海に身を投じて5色(赤・緑・黄・黒・白)の石となったという平家の落人伝説からきている。

国内有数のビーチバレーの聖地にもなっていて、高校生の全国大会が毎年開かれている。

萬安港

萬安とは末永く安全にと言う願いが込められており、郡奉行所属吏であった岡文四郎により、文化9(1812)年から天保6(1835)年まで足掛け24年の歳月を要して作られ、現在は伊予港と呼ばれている。

萬安港旧灯台

もともと木造だった灯台は、明治3(1870)年に石造りに改修され、大正時代(1912年)に今の場所に移設された。当初の燃料は菜種油が使われていた。現在は灯台の役目は終わり、夜になると電灯で周囲を照らし、当時の雰囲気を醸し出している。

栄養寺

灘町の開発に尽力した宮内九右衛門・清兵衛兄弟の墓を含めた宮内一族の菩提寺である。豊臣秀頼の子国松丸が苦厭上人となり、この寺を開基したという説がある。 

栄養寺の名前の栄養をとって名付け、栄養学の確立に尽力した佐伯矩(ただす)は、1876年西条に生まれで3才の頃灘町に来て、15km歩いて旧制松山中学に通った伝説を持つほど勉強に熱心だった。医学の付随分野だった栄養学の重要性を認識し、日本で最初に栄養学を広めた人物である。

宮内小三郎家主屋

元文3(1738)年建築の江戸時代からの庄屋で、国の登録有形文化財に指定されている。

大洲藩主や役人、日本地図作成のため全国を回っていた伊能忠敬の本陣としても利用された。

現在はミュゼ灘屋として、映画上映やミュージアムなどに利用したり、コミュニティスペースとして活用している。

旧伊予農業銀行郡中支店

明治44(1911)年築の建物で、当時洋風建築は珍しかった。いくつかの銀行の支店として1960年頃まで利用されていた。

現在は、来良夢(こらむ)という名称でコミュニティの場として活用されている。館内では、日本三大絣の一つである「伊予絣」の着物や、地元の一代窯で焼かれた「郡中十錦(ぐんちゅうじっきん)」の磁器、「江山焼(こうざんやき)」の陶器や江戸から大正にかけて商店や問屋の広告チラシとして作られた「引札(ひきふだ)」が展示されている。

灘町の古い街並み

大洲街道沿いには古い家屋が所々にあり、昔の雰囲気を醸し出している。

個人で造られた五重塔

大洲街道沿いの造り酒屋だった家の奥には、趣味で作られた奈良の法隆寺五重塔の1/5の模型があった。近くで見ると精巧に作られていて、存在感があった。

防波堤跡

約30年前まではコンクリートでできた防波堤の先は海で、明治42(1909)年郡中沖に迷い込んだ鯨が居ついた為、ここの浜で捕鯨された。その後不漁となった事から、翌年鯨の供養塔を湊神社に建立した。

湊神社(お戎さん)

規模は小さいが漁師から尊崇が厚い神社で、宝暦4(1754)年戎神社として造営。明治42(1909)年天神社と海津見神社と住吉神社を合祀して湊神社に改称。拝殿には伊藤博文の書を写した社号額があり、博文の先祖が伊予地方という説もある。

藤井内科医院

大洲藩の藩医だった家系の家で、江戸時代の建物には、大村益次郎や高野長英が泊まったと言われている。

6代続く医者の家で、今の建物は昭和元年に建てられた。

ツアーを終えて

民主導で造られた町は、活気が大いにあっただろうと想像しながら、見学しました。また、花かつおの製造が枕崎でも土佐でもない伊予市で盛んだということに、驚きを覚えました。そして、現在一般的に使われている栄養という言葉がお寺の名前からとられたことにはあっけにとられました。

伊予市観光ボランティアガイドふるさと案内人の会

穏やかな伊予灘に面し、背後には谷上山を望む「郡中地区」は、江戸時代から、民間が主体となって開発した特異な形態で栄えた町。ここには、この町で芽生えた俳諧、教育、磁器などで形成された、独特の町人文化があります。平家の落人「五色姫伝説」と共に、ノスタルジックな町並みをご案内します。

団体窓口
伊予市観光協会
所在地
〒799-3111 愛媛県伊予市下吾川1512-6
電話番号
089-994-5852

ツアープラン情報

ツアー名
郡中(ぐんちゅう)の町並み見学まち歩きコース
料金
2名以上で、お客様1人に付き、100円
開催日時
随時(要予約)
ツアー時間
約2時間
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
伊予市観光協会
TEL
089-994-5852
定休日
土・日・祝日
営業時間
8:30〜17:15
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