まちなか歴史散策コース

日本各地で行われた戊辰戦争の中でも、もっとも過酷な戦いの一つであったと言われている「北越戊辰戦争」。長岡出身の河井継之助がどのように新政府軍に立ち向かったのか?まちなかでその足跡をたどります。

長岡駅モニュメント

明治31年にできた長岡駅には、長岡城の本丸があったことを示すため、お城の石垣を模した噴水がある。その前には、日本三大花火大会の一つ長岡花火が8月2日・3日に行われることをPRする意味で、正三尺玉(約90cm)が飾られている。

長岡城

水島爾保布(におう)が描いた「長岡城元旦年賀登城の図」が、地下横断歩道の踊り場に飾られている。風光明媚な城で、3階建てと2階建ての櫓が描かれている。長岡藩は7万4千石で、藩士は800人ほどだった。

長岡城二の丸跡

雪の上をキツネが青苧(あおそ)の枝をくわえ、歩いた後をなぞると城の曲輪ができたという言われから苧引形兜(おびきがたかぶと)城と別名で呼ばれている。その狐を祀った城内稲荷神社が二の丸跡の一角にある。

宝田石油本社跡

戊辰戦争に敗れた長岡が復興した理由の一つに、長岡市の南部にある東山地区から石油が出たことがある。明治21年頃から昭和の初めまで石油の採掘が盛んにおこなわれた。それに伴い機械業や工作機械業などの製造業も大きく発展した。二ノ丸跡には、油田開発に尽力した山田又七が中心になって設立した宝田石油の本社があった。その紹介パネルが二の丸跡の一角にある。

米百俵之碑

戊辰戦争で長岡藩が負けた時に、長岡藩主牧野家の分家にあたる三根山藩から救援米として米百俵が贈られた。長岡藩の家老だった小林虎三郎は、その米を藩士たちに配らないで将来を担う子供たちのためにと、学校の教育資金に充てた。

西軍(新政府軍)上陸の地

5月2日に小千谷会談で決裂した後、10日に戊辰戦争が始まった。小千谷との境の榎峠では、会津・桑名・米沢藩などの応援があり、長岡藩は18日までは優勢に戦っていた。新政府軍、旧幕府軍どちらにつくか模様眺めしている他藩の動きがあり、戦いが長引くと新政府軍につかなくなる可能性があると考え、新政府軍を率いる山形有朋は同じ越後の与板藩(井伊家の支藩)から船を7隻調達した。1868年5月19日早朝、霧の中約200名の騎兵隊が、長雨の続いた信濃川を渡って上陸し、一気に長岡城を攻めた。長岡藩の主力部隊は榎峠にいたため、虚を突かれた。約4㎞離れた本陣にいた河合継之助は、長岡城に駆けつけて大手門でガトリング砲を使って応戦したが、その日に落城した。

長岡藩主は会津藩(会津若松)に逃れた。長岡藩の主力部隊は無傷だったため、米沢藩・庄内藩とともに長岡の北にある加茂に再集結して、長岡城を攻撃し、長岡城を奪還した。しかし河合継之助が負傷したため、総崩れとなり、再度落城した。

内川(柿川)

城と西軍(政府軍)上陸地の間に、内川(柿川)が流れている。内川は長岡城の外堀の役目を果たしていた。西軍(政府軍)が攻めてきた時に、本来は橋を落として攻め込まれないようにする予定だったが、あまりにも早く攻めてきたため、落とすことができなかったので、一気に長岡城が落城した。

西福寺 維新の暁鐘

西軍(政府軍)が上陸してきたことを、藩士が鐘を乱打して城に知らせた鐘が西福寺にある。

長岡城が落城したことで、結果として維新の幕開けにつながったので、維新の暁鐘と呼ばれている。

平和の森

昭和20(1945)年8月1日に、長岡市に空襲があり、市内中心部の約8割が焼けた。小学生約200名近くが犠牲になっている。先生たちが浄財を集め、長岡駅前に平和の像を建てた。その後、ここ平和の森に移された。毎年8月1日に慰霊祭が開かれる。そして毎年8月2日・3日に行われる花火大会も慰霊の意味が込められている。

長岡空襲 爆撃中心点の碑

米軍が作成した航空写真を基に、爆撃の中心地が特定された。米軍は半径約1.2kmの円を描き、その円の中心点を狙って攻撃をかけた。

互尊(ごそん)文庫

江戸末期長岡の生まれで、明治から昭和初期にかけて活躍した野本恭八郎の互尊独尊思想にちなみ、名付けられた図書館になる。互尊独尊とは、「自らを尊ぶとともに、他人も尊敬して幸福な社会を築こうとする思想」のことで、山本五十六も影響を受けた。大正7(1918)年に長岡市で最初の公立図書館として、長岡駅近くに開設したが、長岡空襲で現在地に移転した。令和5年2月に閉館し、現在ミライエの中にある。

山本五十六生誕の地

山本五十六は、高野家の六男として明治17(1884)年に生まれた。五十六の名前は生まれた時の父親の年令(56才)の意味で、一番上の兄は34才違いになる。大正5(1916)年海軍少佐の33才の時、江戸時代長岡藩家老で跡継ぎがいなかった山本家を継いだ。生家の高野家は戦災で焼失し、昭和33(1958)年の時に復元された。 

山本五十六は昭和18年4月18日に、パプアニューギニアのブーゲンビル島上空で撃墜され亡くなった。慰霊祭が毎年4月18日に行われている。

土浦海軍航空隊の玄関には、航空隊の生みの親と言われた山本五十六の全身像高さ3.6m・台座2.7mが建っていた。戦後、アメリカにより壊される危険があったため、上から1.1mで切断し、霞ケ浦に沈めた。拾って屑鉄を売る商売をしていた業者が霞ケ浦から掘り出したが、鉄ではないので庭に放置されていた。それを元海軍の人が見つけて、千葉のお寺に安置した。

その話を聞いた当時の長岡市長が長岡に持ってきたものを型を取って、復元された室内に展示されている。玄関入り口横から上がる2階の2畳の部屋が、山本五十六の勉強部屋だった。(左写真)山本五十六は、海軍に入る17才までここで過ごした。

河井継之助記念館(2階は撮影禁止)

記念館は、平成18(2006)年に河井奥州三古関のひとつに数えられる「白河関」継之助屋敷跡に建てられた。

河井継之助は、文政10(1827)年に生まれ、少年の頃、陽明学を学び、知行合一(知識と行動は一つ)という考え方を知った。嘉永5(1852)年26才の時、江戸に遊学し、佐久間象山の門人になる。嘉永6(1853)年9月にペリー来航すると、提出した意見書が藩主の目に留まり、藩政改革をおこなうことになった。しかし藩主独断の人事だったので、重臣たちから反感を買い、2カ月で辞職した。

安政5(1858)年には、吟味役として村の騒動を治める。翌安政6(1859)年に、西国遊歴の旅に出て、備中秋山藩(現岡山県高梁市)で藩政改革に成功した山田方谷に会い、教えを乞うた。改革の基本は城内の実情を知ることが重要だと学んだ。

慶応元(1865)年再度吟味役として、村の騒動を治め、その後出世して藩政改革をおこなった。慶応4(1867)年大政奉還がおこなわれると一気に政局が動いて、新政府ができ、旧幕府軍との間で戊辰戦争が始まった。慶応5(1868)年5月2日、小千谷にいた西軍(政府軍)の岩村精一郎らと慈眼寺で会談し、長岡藩の立場を説明し、戦争を回避しようとしたが、岩村は聞き入れなかったので、長岡藩は戦争に巻き込まれてしまった。

河合継之助が全国に名が知れるようになったのは、司馬遼太郎が「峠」という小説を書いたこと、その映画(2019年)が上映されたことによる。

長岡観光ボランティアガイドの会

郷土の歴史・文化等の知識を高める学習及び会員相互の情報交換を通して親睦を図っています。そして奉仕の精神をモットーにして資質の向上に努め、長岡市を訪れる観光客並びに一般市民に対するガイドサービスを行うことを目的とします。

団体窓口
長岡観光コンベンション協会
所在地
〒940-0062 新潟県長岡市大手通2-2-6 ながおか市民センター2階
電話番号
0258-32-1187

ツアープラン情報

ツアー名
まちなか歴史散策コース
料金
ガイド1名当たりの料金 3,000円
※ガイド1名でお客様15名様までとなります。
※ガイド料金は事前のお振込み(手数料お客様負担)でお願いします。
※前日・当日のキャンセルは、取消料がかかります。(窓口までご確認ください)
開催日時
8月2日・3日(長岡花火大会開催時)を除く
ツアー時間
約3時間
予約受付
10 日前まで
お問い合わせ
長岡観光コンベンション協会
TEL
0258-32-1187
定休日
土・日・祝日・年末年始
営業時間
8:30〜17:15
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