天童織田藩の歴史と人間将棋を訪ねるコース

天童の歴史と文化に関するコースを巡ります。
・江戸時代後期に納めていた織田藩に関する歴史
・俳人松尾芭蕉に関する歴史
・将棋に関する内容
・その他天童にかかわる内容

路上詰将棋

天童駅から天童温泉街まで19か所ほど歩道に詰将棋が描かれていて、天童駅を降りて最初にある盤は、天童の頭文字「て」の形をした盤面になっている。

ちなみに、日本の将棋の駒の生産量の9割が天童市だそうだ。

「奥の細道」

松尾芭蕉は、尾花沢で弟子の鈴木清風に勧められ山寺に行くことになる。その途中、天童に寄っている。その話が曾良日記に出てくるが、その部分を石碑にしている。

奥の細道には載っていないが、芭蕉が詠んだ句「行く末は 誰が肌ふれむ 紅の花」が石碑になっている。紅花が咲いた時期に天童で詠んだ句だ。

陣屋跡

織田藩は織田信長死去後、次男の信雄(のぶかつ)が跡を継いだ。江戸時代に入り、群馬の小幡(甘楽町(かんらまち))の藩主だったが、その後山形県高畠に国替えとなり、天童はその領地の一部だった。60年くらい後の1831年に領地を一つにまとめ、2万石の藩主として天童に移ってきた。

しかし戊辰戦争で官軍の一員として先導したため、庄内藩に攻められ、陣屋を含め町全体(人家233軒・寺3軒)が焼かれてしまったので、残っているものは何もない。

喜太郎稲荷神社

戦国時代、天童を治めていた天童氏が最上氏に負けた時、天童氏は母親の実家の仙台方面に逃げた。その時道案内した家臣の狐崎喜太郎が天童氏の守り神といわれ、喜太郎神社として祀られている。天童では織田氏の守り神でもあるとともに、多賀城市にも喜太郎稲荷神社がある。

吉田大八屋敷跡

織田家中老だった吉田大八は、戊辰戦争で官軍として庄内藩と戦いを先導したが、負けた後織田藩は奥羽越列藩同盟(旧幕府連合軍)に加わることになり、庄内藩と戦った責任で切腹を命じられた。吉田大八は経済政策に長けた人物で、生きていれば明治時代に活躍していたのではと地元では思われている。将棋の駒の生産地だった米沢藩から、二人の駒師を呼び寄せ、天童を一大生産地に仕立て上げた。

将棋駒用木材

将棋の駒は、木材を平板にして、天日干しして何年もかけて水分を抜いた後加工するが、製品になるまで工程は多い。伊豆諸島にある御蔵島のツゲが最高級と言われている。

三宝寺

三宝寺は織田家の菩提寺で、山門には天皇家の副紋と言われる五七の桐の紋があり、織田藩主から許可いただいたそうだ。

門を入って右手にある仰徳殿(こうとくでん)の中を拝見した(写真撮影禁止)が、織田家全員の殿様の位牌が安置されている。ポルトガル宣教師が、織田信長の姿を書いたデッサンも飾られていて、信長に最も似ていると言われている。

天童織田の里歴史館

明治12年に、東村山郡役所として建てられた洋風建築の建物だ。天皇が東北巡幸の時、明治14年9月に行在所(あんざいしょ)として利用された。

仏向寺

吉田大八の墓があり、墓石の文字は吉田大八自身が書いたものだと言われている。墓石の側面には本国は尾張と書いてある。(今でいう本籍地を意味する)

下の写真はこの辺りで一番大きな板碑で、山寺石でできている。おそらく仏向寺が移ってくる前の鎌倉時代に大日堂にあったであろうと言われていて、大日如来の梵字が書かれている。

妙法寺の観月庵

本来吉田大八の切腹は仏向寺で行われるべきだったが、戊辰戦争で織田藩陣屋付近の建物はすべて焼かれたため、仏向寺は陣屋仮場所として利用されていたため、仏向寺近くの妙法寺でおこなわれたのではないかとのこと。

建勲神社(たけいさおじんじゃ)

明治3年創建で、織田信長を神として祀られた神社になる。織田信長を祀った建勲神社は、ほかに京都と兵庫県丹波市にある。

舞鶴山中腹にある「文学の森」石碑巡り

天童の街並みや月山を望むことができる眺めのいいところに文化人の石碑が3つある。

  • 明治の文豪田山花袋の石碑‥母親が天童(高擶)生まれの娘だった
  • イザベラバードの石碑‥東北を旅した紀行文の中に天童を通ったが、蚕が育つ時期で泊まることができなかったと記述がある
  • 志賀直哉の石碑‥2番目の母親が織田藩藩士の娘で、良好な関係を築いていた

人間将棋会場

2018年10月に2362局を一斉に将棋を指したことで、ギネスの世界記録を打ち立てた。その記念に作られた「王将」のモニュメントがあり、指した人全員の名前が刻まれている。

人間将棋は、60年以上にわたり毎年4月に開催されていて、多いときは1万人以上が訪れるそうだ。マス目に一人ずつ入り、必ず1回は全部の駒(人)を動かすのがルールとのこと。

人間将棋の観覧席の一番上には、大山康晴永世名人の書の碑があり、その奥の展望台からは天童の北方面を望むことができる。天気がいいと、月山や鳥海山を望むことができる。

天童古城

舞鶴山は、1375年築城の天童氏の山城があり、山城としては山形県で最大の規模だった。1584年に、最上義光に攻められ、落城し廃城となった。

吉田大八像

官軍として庄内藩と戦った時の姿の像がある。

佐藤千夜子顕彰碑

舞鶴山北側のもみじ園側に降りていくと、途中に天童出身の佐藤千夜子顕彰碑がある。日本で一番最初のレコード歌手佐藤千夜子の半生を描いたNHK昭和52年の朝ドラ「いちばん星」を顕彰した碑だ。波浮の港(昭和3年)・東京行進曲(昭和4年)などが代表曲だ。

また閉まっていて見ることができなかったが、近くにある天童民芸館では、その時の朝ドラロケ風景・資料の展示や山形県を舞台にした同じくNHKの朝ドラとして放映された「おしん」の小道具の展示がおこなわれている。

天童駒(わらべこま)ガイド

天童市内を、ご希望にそってご案内します。 歴史散歩、寺社めぐり、史跡めぐり、市内観光、花の名所など、天童の有名な名所から、隠れた名所まで、ガイド費無料でご案内します。

団体窓口
天童市観光情報センター
所在地
〒994-0034 山形県天童市本町1-1-2 パルテ内
電話番号
023-653-1680

ツアープラン情報

ツアー名
天童織田藩の歴史と人間将棋を訪ねるコース
料金
無料
開催日時
9:30〜17:00
ツアー時間
約3時間
(お客様の都合に合わせます)
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
天童市観光情報センター
TEL
023-653-1680
定休日
第3月曜日(祝日の場合、第2か第4月曜日)
営業時間
9:00〜18:00
このツアーに申し込む