田原坂西南戦争資料館及び公園コース

西南戦争の壮絶な戦い、志士たちの思いや戦争の悲惨さや平和の尊さを感じてもらおうと、主に田原坂 資料館や田原坂公園内を案内しています。

概要

ガイド見学者は年間1万人で、そのうち4千人強が鹿児島県小学校の修学旅行生で、西南戦争を勉強をしにくるそうだ。

毎年3月20日に、西南戦争の慰霊祭が開催されていて、2019年には、西郷隆盛と熊本城司令官だった谷干城(たてき)の子孫が初めて会われ、握手をされたそうだ。

熊本市田原坂西南戦争資料館

アプローチ展示室

館内に入ると最初に、アメリカのペリー来航から西南戦争が始まるまでの状況を、パネルにして展示してある。その中に、ペリー来航の様子を狂歌で詠んだ「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず」が書いてあり、上喜撰はお茶と蒸気船を掛けた。

ペリーが来航したことで、一気に幕末に突入し、天皇を中心とした中央集権国家を目指し、明治維新を迎えた。清国の植民地化と日本が同様になることを危惧して、急激な改革をおこない、近代国家を目指した。殿様に代わり知事制度が導入され、市民平等を目指したため、武士階級のプライドがなくなり、各地に反乱が起きたといわれているが、経済的な問題が大きかった。西郷さんが役を離れ鹿児島に戻った時には、600名が一緒に帰った。

西郷さんの先祖は、熊本県菊池市七城町で、菊池一族と言われている。奄美大島に流された時、形見の名前を菊池源吾(吾の源は菊池にあり)としてくれという話しがある。

西南戦争勃発の二つの理由

  1. 鹿児島では明治政府の意思が通じず、別個の動きをしていた中、西郷さんが何を考えているのか、把握する目的でスパイを送り込んだ。「西郷さんを殺しに来たのではないか」とスパイを捕まえてみたら、しさつ(視察・刺殺)に来たと言い、私学校生は刺殺と捉えた。
  2. 当時の火薬の7割が鹿児島で製造されていたので、政府が保管場所を鹿児島から移そうと火薬を持ち出そうとした時に、私学校生が弾薬庫を襲撃して奪った。

鹿児島出発

内部で話し合った結果、スパイを送り込んだ真意を政府に確認に行くことになった。西郷さんの暗殺の可能性があるので、武器・大砲を持ち、1万3千人の護衛をつけることになった。熊本城(鎮台)を通って東京へ行くことになり、1878年2月14日に、鹿児島を約1万3千人で出発し、最終的に5万人まで膨れ上がった。

政府側

政府側はその状況を脅威に感じ、2月19日に薩摩軍に対して征討令を発令した。九州地区を統括する部隊があった熊本城には、3,500人程度がいたが、明治6年に徴兵令により兵隊になった人が中心で、農民が多かった。熊本城で時間を稼いでいるうちに、全国の兵隊を集結させようとなった。

戦闘開始

2月20日に、薩摩軍が熊本に到着し、2月21日に川尻で戦闘が始まった。薩摩軍は熊本城を簡単に落とせると考えていたが、意外な抵抗にあい、なかなか落とせなかった。そんな中、北のほうから政府軍の援軍が来るということで、薩摩軍の一部の兵隊が街道を北上し、植木町で迎え撃った。2月25日より菊池川をはさんで両軍が戦い政府軍が薩摩軍を押し返した。

田原坂

福岡方面から熊本に向かう街道は平坦な道が続く中で、田原坂は80mの高低差があり、曲がりくねった道1200mにわたり続く。

ここ田原坂の攻防が大激戦となり、3月4日~20日の17日間で3,500人が亡くなっている。そして内戦とは、親子兄弟が分かれて戦う悲惨なものだった。

体感展示室

田原坂の戦場をイメージしたジオラマと映像で、迫力ある雰囲気を味わうことができる。実際に戦闘の中にいるような感覚で、砲弾の着弾音・振動・小銃弾の飛来など、立体音を使って戦いが再現されている。

検証展示室

両軍の食事が紹介されていて、政府軍は給食形式、薩摩軍は自分たちで用意したものを食べる自給自足形式だった。

3月のまだ寒い時期での戦いで、政府軍の軍服に対して、薩摩軍は着物だった。 

政府軍はスナイドル銃という後ろで弾を込めるので、すぐに打つことができたのに対して、薩摩軍はエンフィールド銃という前から棒を使い弾を込めてから打つタイプが多かった。薩摩軍が1発撃つのに、政府軍は5発くらい打つことができた。

両軍とも使用していた四斤山砲(よんきんさんぽう)という大砲で、砲撃距離は1000~2600mで、弾の重さは4㎏だったそうだ。

後ろの写真は、当時のもので、街道が写っていて(白矢印)、電柱が立っている。明治8年には東京から熊本まで通信がつながっていて、情報戦でも政府軍は薩摩軍を圧倒していた。

地中から見つかった銃弾が陳列されていて、鉛でできているので、腐敗して白くなっている。体に入ると、鉛の毒が回るので、被弾した足や手をすぐに切り落とされていたそうだ。

西郷札という貨幣を宮崎市佐土原で作られていて、資金力が政府軍の1/10程度だったため、物資を調達するために使用された。

写真に写っている頭蓋骨には、多くの刀の傷がついている。

西南戦争以前は、軍に属していた医師が味方の負傷者を治療していたが、西南戦争では敵・味方関係なく治療を行う博愛社(日本赤十字の元)が両軍の負傷者の治療に当たった。

ここ田原坂が日赤の発祥の地と言われている。

兄弟が敵味方に別れ戦った。山形の庄内地方の人で、弟さんは薩摩に留学し明治10年の戦争が起きた時、薩軍として残った。お兄さんは東京で政府軍だったため、兄弟分かれて戦うことになった。両方とも、この西南戦争で亡くなった。

田原坂から見る風景(資料館前より)

三ノ岳(681m)は薩摩軍陣地で、山の向こう側は有明海のため、船の監視をおこなっていた。手前の横平山を占領したら田原坂の薩摩軍が判る為、政府軍は旧士族を中心とした警視抜刀隊を組織し、3月20日に占領した。それで薩摩軍は一気に崩れ、挟み撃ちに合うのを恐れ、田原坂から撤退した。

木葉山(このはやま)の麓の玉東町を通って、一の坂・二の坂・三の坂と続く田原坂の峠に出る街道を、政府軍は突破できなかった。

田原坂本道を攻めあぐねた政府軍は、正面の二俣台地との間の谷から駆け上がって攻めようとした。二俣台地(距離約1000m)から大砲を打ち、政府軍が駆け上り昼間は陣を築くが、夜になると薩摩軍が奪い返すという攻防が3月20日の横平山を政府軍が奪うまで続いた。

西南役戦没慰霊之碑

高い慰霊碑を建てられたのは、鹿児島本線から見えるようにということで、碑に向かって右側が政府軍、左側が薩摩軍の戦没者14,000人全員の名前が刻まれている。

田原坂公園 ~美少年像~

薩摩軍の最年少は13才で、20才以下の人が多く参加していた。

田原坂頂上

田原坂の頂上から、三の坂・二の坂・一の坂に続く下り方面を見ても、道が曲がっていて見えないように作られていた。当時は舗装されていなく赤土の道で、雨が降ったらぬかるみがひどく歩きにくかった。

坂にはそこら中に戦争の跡があるので、そこかしこで銃弾が出てきている。

田原坂崇烈碑(すうれつひ)

西南戦争終了3年後の明治13年に、明治政府はよくここを守ってくれたという感謝の気持ちを込めて建てられた。見る位置により、マリア像・観音様にも見える。

弾痕の家

資料館横には、西南戦争で被害にあった写真のもとに、復元された土蔵が建っている。

西南戦争で使用されたスナイドル銃・エンフィールド銃の銃弾

西南戦争140周年記念で造られたレプリカ。

資料館で、1,000円で販売されている。

田原坂観光ガイドの会

田原坂観光ガイドの会は、歴史的文化遺産である西南戦争・ 田原坂の戦いに関し、熊本市植木町や関係する周辺地域の歴史的遺産を研究・活用しながら地域の観光振興に取り組んでいます。 西南戦争の壮絶な戦い、志士たちの思いや戦争の悲惨さや平和の尊さを感じてもらおうと、主に田原坂資料館や田原坂公園内、希望があれば田原坂公園周辺を案内しています。

団体窓口
熊本市田原坂西南戦争資料館
所在地
〒861-0163 熊本県熊本市北区植木町豊岡858-1
電話番号
096-272-4982

ツアープラン情報

ツアー名
田原坂西南戦争資料館及び公園コース
料金
交通費代として2,000円
(ガイド1名・20名まで)
※ 熊本市田原坂西南戦争資料館入館料は別途必要となります。
開催日時
9:00〜17:00
ツアー時間
60〜90分
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
熊本市田原坂西南戦争資料館
TEL
096-272-4982
定休日
12/29〜1/3
営業時間
9:00〜17:00
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