岩村城・町歩きコース <岩村城編>

日本百名城で日本三大山城と言われる岩村城は、標高717mに築かれ、峻険な地形を巧みに利用した要害堅固な城です。江戸時代の建物が多く残る町並みは、朝ドラ「半分、青い。」のドラマロケ地にもなりました。国の重要伝統的建造物群保存地区にしてされた町並みを散策します。

岩村城藩主邸太鼓櫓

戦国時代、武田勢が攻めてきて落城するまでは、岩村城の北東に当たる大円寺というところに388年間城下町があった。その後織田信長が治める時代になり今の城下町ができた。(1575年)

1610年頃までは、藩主をはじめ武士たちは山の上に住んでいたが、安定した世の中になり、藩主邸以下武家屋敷を麓に築いた。

藩校の門

8代目藩主松平乗紀(のりただ)公が、1702年に藩校(知新館)を作った。

門の中から、ちょうど夕日が沈む時期があり、写真スポットの一つだ。

佐藤一斉

岩村の三偉人の一人で、残り二人は歌人の下田歌子と植物学者の三好学になる。佐藤一斉は、幕末の儒学者で、70才の時に幕府の学問所である昌平黌(しょうへいこう)の塾頭(総長)に任命された。有名な書物として、言志四録(げんししろく)があり、1133の言葉を書いた本になる。弟子には、佐久間象山や山田方谷などがいて、吉田松陰・勝海舟や西郷隆盛にも多大な影響を与えた。

小泉首相が国会の教育改革法の趣旨説明の中で、佐藤一斉の言葉を引用したことでも有名になった。

下田歌子(歌人・教育者)

江戸末期に生まれた下田歌子(1854~1936)は、女性は藩校に入れなかったため、父の書斎で書物を読んで育った。明治に入り、東京に行き、歌の才能を見出され、宮家に務めた。その後、結婚したが、主人が亡くなり、40才の頃欧米に留学し見聞を広め、女性の教育に力を入れ、実践女子学園を作った。

実家は現在、実践女子学園が所有し、中学2年になると、墓参りに訪れるそうだ。

下田歌子が本を読んだと言われる父の書斎

下田歌子の実家があった敷地越しの遠くには、御岳山を望むことができる。

藤坂(岩村城登城道)

江戸時代に入ってからの登城道で、位の高い人が通る道だ。道の広さは石畳の幅ではなく、両脇の土塁(木が生えている辺り)まであり、威厳を保とうとしたのではないかとのこと。岩村城を築城(1185年)したといわれる加藤影兼の妻が、嫁ぐときに紀州から持ってきた藤の花の種を植え、その木が大きくなったことから藤坂と呼ばれている。藤坂は、一の門までの間をいう。登城口から本丸までは800mある。

初門

登城口から200m(本丸まで600m)の看板を過ぎたところに、初門の看板がある。敵が攻めてきたときに一気に登れないように、右に曲がった後、大きく左に曲がり、見えないようにしてあり、有事の際には、ここに仮設の門(初門)を設ける計画だった。

引き続き急な坂が続くが、道幅は広く圧迫感はない。ある程度登ってきたので、本来であれば眼下に町中を見ることができるが、残念ながら木が生い茂り臨むことができない。町中を望むことができれば、ちょうどいい休息の場となり、登る客にとってもいい場所になりそうだ。

さらに急な坂が続く。

一の門

本丸まで400m(半分)の看板を超え歩いていると、一の門の看板がある。ここから上が城内だったそうで、ガイドさんが乗っている石が門の礎石だ。この辺りも急な坂になっているのは、門を下から破られないようにするためで、道の右側に積まれている石垣の上から攻撃できるようになっていた。

織田信長と共に本能寺の変で亡くなった森蘭丸が城主だった頃に右半分の石垣は築かれたものと言われている。石の総数は4万個で、15km離れたところから運んだ。

土岐坂

一の門を超え、土岐門までの坂を土岐坂と言い、その両側には城内屋敷が10か所ほどあったそうだ。

下写真左に見える石は、土塀の礎石とのこと。

土岐門

一の門に続く第二の門で、土岐氏を破った時の城門を奪い、ここに移したという言い伝えからこの名がついた。

畳橋

歩いている道は当時、空堀になっていて、手前の石垣と奥の石垣の間に木の橋がかかっていたて、空堀の深さも今の3倍ほどあり、相当な深さがあった。有事の時は橋を外すが、外し方が畳を外すところから畳橋と名が付いた。

畳橋を渡った所に三重櫓があり、天守閣のように見えたそうだ。

ガイドさんの見どころ3か所のうちの一つ。

畳橋を超えると追手門があり、両側に立派な石垣が出てくる。

井戸跡

城内には、17か所の井戸があった。井戸のふたを開けると今も水があり、水は伏流水で豊富だったことがうかがえる。隣りの水晶山(958m)から水を引っ張ってきていて、水晶がとれるところには、いい水があると言われている。

ちなみに、門も17あったそうだ。

霧ヶ井

霧ヶ井と呼ばれている城主専用の井戸は伝説の井戸で、敵が攻めてきたときに、蛇骨を井戸に入れると、たちまち霧が出て城を守ったと言われている。

夏終わりから冬初めにかけて霧が多いので、岩村城のことを地元の人は霧ケ城と呼んでいるそうだ。

二の丸跡

岩村城最大の曲輪で、番所・役人詰所・武器庫などが設けられていた。現在は私有地のため、残念ながら中を見ることができない。

六段壁

当初の石垣は6段ではなく、一番上の石垣の崩落を防ぐために、1800年代に5段積まれ6段壁になった。

ガイドさんの見どころ3か所のうちの一つ。(二つ目)

真ん中に写っている電柱は撤去予定で、電柱がなくなると写真スポットとしては最高だ。

東曲輪

本丸近くの東曲輪からは、中央アルプスが見え、ガイドさんが好きな時期は、雪がかぶった山々の景色を見ることができる1~2月にかけてだそうだ。

長局埋門(ながつぼねうずみもん)

籠城した時の最後の門になる。本丸は上下2段の曲輪になっていて、下段を長局と呼ばれていて、防御の目的より本丸御殿の格式を整えることを重視していた。

裏埋門

裏埋門は、表門より狭くなっている。門柱の礎石が、今も残っている。(〇)

3つの石垣が1か所で見ることができることでよく紹介されている。

写真右側の石垣は江戸時代初期に造られた「野面積み」で、写真中央の石垣は「切り込み接(は)ぎ」と言って「野面積み」より成形した石が使われている。写真左の石垣は「打ち込み接ぎ」で成形した石を積み上げ、石と石の間に小さい石をはめ込んである。さらに、1718年地震で崩れた石垣をその後の補修を長い石と短い石と交互に積み上げた「算木積み」で行われている。3つではなく、4つの石積みが1か所で見ることができる。

ガイドさんの見どころ3か所のうちの最後の一つ。

本丸

本丸の正面には、水源地の水晶山が見え、手前の看板には、織田信長が明智光秀と共に岩村城で2泊した内容が記載されている。訪れた80日余り後に本能寺の変があり、亡くなっている。

反対側からは、岩村の町並みを望むことができる

旧城下町

北東方面に棚田として切り開かれたところがあり、そのあたりが戦国時代まであった城下町の大円寺地区になる。武田勢に攻められ、焼き討ちにされた。

大円寺から富田方面(旧城下町)
本丸の石垣

出丸

岩村城の南西部に突出して構えられた、本丸を守る重要な曲輪。

南曲輪

出丸から少し下ったところに南曲輪があり、下を覗くと急峻な崖になっている。尾根伝いに行くことができるところがあるが、V字の堀が掘ってある。(堀切)通常は橋を架けて渡るが、敵が攻めてきたら橋を外して防御出来るようになっている。

観光ボランティアガイド

岩村城跡のある城山に抱かれた岩村の町。 遠く戦国時代から江戸、明治、大正、昭和と古き良き時代の変遷を楽しむことができます。美味しい水と豊潤な土地から生まれた食がたくさんあるのも岩村です。 是非ガイドとともに、魅力ある岩村の城と町を巡ってみませんか。

団体窓口
恵那市観光協会岩村支部
所在地
〒509-7403 岐阜県恵那市岩村町263-2
電話番号
0573-43-3231

ツアープラン情報

ツアー名
岩村城・町歩きコース <岩村城編>
料金
岩村城・町歩きコース
ガイド1名 3,500円
岩村城コース
ガイド1名 2,500円
町歩きコース
ガイド1名 2,000円
開催日時
9:00〜16:00
ツアー時間
60〜180分
予約受付
10 日前まで
お問い合わせ
恵那市観光協会岩村支部
TEL
0573-43-3231
定休日
12/28〜1/4
営業時間
9:00〜16:00
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