設楽原の決戦場、 天正3年(1575)長篠の戦いの舞台となった場所。武田軍と織田・徳川連合軍の総勢5万人を超える兵士たちが、当時東西の勢力の要となっていた長篠城をめぐり様々な戦術を駆使して戦いました。無敵を誇っていた武田軍の騎馬隊に対する織田・徳川連合軍は、「火縄銃」という新たな武器を「馬防柵」と「鉄砲隊」という戦術で組織的に利用し、圧倒的な強さで短期間のうちに決戦を征しました。その時の馬防柵は今も決戦場跡地に再現されています。当時の村人は武田方・織田・徳川連合軍とも分け隔てなく丁重に葬りました。
長篠・設楽原の戦い
織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が戦った戦いを「長篠の戦い」と言われてきたが、今は「長篠・設楽原の戦い」と地元では呼んでいて、だんだんと全国的にも言われるようになってきている。長篠城の籠城の戦いが一大決戦の要因になったが、織田・徳川連合軍が設楽原で迎え撃って戦ったので、「長篠・設楽原の戦い」と呼ばれるようになった。
長篠城跡
長篠城は、宇連(うれ)川と寒狭(かんさ)川が合流する三角点の所にある。この辺りの豪族は力が弱く、桶狭間の戦い(永禄3年(1560))までは多くが今川の傘下に属していた。その後、元亀3年(1572)頃は武田信玄が台頭し、徳川との境に位置していた長篠城は武田に付いたが、翌天正元年(1573)に武田信玄が亡くなり、徳川家康が長篠城を取りかえした。武田信玄の子勝頼は長篠城を取り戻そうとしていたのが、戦いが起きる前の状況だった。
戦い前夜
武田を裏切って、徳川に寝返った作手の亀山城主であった奥平貞昌を中心に500人で長篠城に籠城していたのを、天正3年(1575)5月1日にはぐるっと武田軍が1万5千の兵で囲んだ。徳川家康は助けに行くために、織田信長と清州同盟を結んでいたので、援軍の要請をした。織田信長の置かれた状況も大変だったが、徳川家康が武田方に付かれては困るという思いもあり、参戦することになった。
長篠城
堀
堀がジグザグになっているのを横矢掛けといい、攻めにくく防御しやすい造りになっている。
本丸
奥三河一帯に多くの城がある中で、長篠城は中心的な役割を持った城になるので、大きな本丸があり、戦いの時に弾薬や食料を持ち込める。平穏時は外に居を構え、農業などをおこなっていた。何回も発掘しているが、瓦は一枚も出ていないので、天守閣がなかった事が分かる。城内の建物は、藁ぶきか板葺きになる。
本丸の後方は2つの川で断崖絶壁になっているので、自然の要塞(後堅固の要塞)で難攻不落の城となる。実際現地を訪れて川を見ると、断崖絶壁を実感できる。川の対岸の山に、武田軍が5つの砦を築いて周囲を囲んで長篠城本丸を見下ろしたが、天正3年(1575)5月1日から20日までの20日間、武田軍1万5千に対して5百の兵で持ちこたえた。
訪れたのが4月下旬だったので、5月5日におこなわれる「合戦のぼり祭り」用ののぼりが立ち並んでいた。祭りでは、火縄銃を撃つ催しもあるそうだ。
「大」の旗印は、武田勝頼のものになる。武田信玄の「風林火山」が有名だが、勝頼はその旗印を使うことを許されなかったため、諏訪大明神からとった「大」を使った。
5月1日から取り囲まれてから食べ物がだんだん尽きてくる中500人で持ちこたえていたが、城主の奥平貞昌から「誰か城を抜け出して徳川家康に援軍を頼みに行ってほしい」との命令に、鳥居強右衛門が志願した。城を抜け出し、濁流の川を約2kmほど泳いで下り、山に登って岡崎城(約65km)まで行き、窮状を訴えたので、織田・徳川連合軍は至急長篠に向かうことになった。そのことを一刻も早く伝えるために、とんぼ返りで長篠城まで戻ったが、手前で武田軍につかまる。援軍が来ることを知った武田軍は、「援軍が来ないから城を明け渡せと叫べ」と言われ、「わかった」と承知したふりをして、対岸から長篠城に向かって「織田信長様・徳川家康様は近くまで来ているからもう少し頑張れば助かる」と言ったため、武田軍は磔(はりつけ)にして殺してしまった。数え36才で、身分の低い雑兵だったが、運が開けるなら、子供を引き立ててほしいと、辞世の句「我が君の 命にかわる 玉の緒を 何に厭ひけん 武士(もののふ)の道」を残している。鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、地元で英雄となっている。
織田・徳川連合軍が援軍に来て設楽原に布陣したのを機に、武田軍は軍議の末、長篠城包囲を解き、寒狭川を超えて決戦場に向かった。
長篠城址史跡保存館
武田勝頼の立場
武田勝頼は信玄四男で、勝頼以外の子はすべて{信}の字が入っている。武田24将の血判が入った信玄の家督遺言には、勝頼の子で信玄の孫の信勝16才になったら竹田家の家督を継がせるように書かれていた。
長篠城址
昭和6年に国の史跡となった。
陣太鼓
戦場などでは、背中に背負った陣太鼓をたたいて指示を出す。この戦いで使用したと伝えられる陣太鼓で、太鼓面に血痕が付着し、籠城戦の激しさをうかがい知ることができる。
長篠城から出てきた鉄砲の玉
長篠城からでてきた銃弾が陳列されている。通常の銃弾は鉛でできているが、赤丸印のものは銅でできていて、銅銭を溶かしたものになる。銅を溶かすには溶解温度が高いため、作るのが大変だ。長篠城に打ち込んできた銃弾なので、武田軍のものだ。
長篠合戦屏風
犬山城主成瀬家が戦いから約100年後(安永年間頃と言われている)作った屏風。
長篠城の建物が実際より立派に描かれている。細かく見ていくと、織田・徳川軍の陣容は前線に徳川軍で後方に織田軍になっていることや伝令の役目の使番(おつかいばん)の「五」の旗印の侍が徳川家康の面前にいることなどが描かれている。
合戦後
合戦のあった1575年の7年後(1582年)3月に、武田勝頼が自害、同年6月に織田信長が本能寺の変で亡くなっている。
医王寺
長篠城から約900mにある医王寺の裏山(標高約120m)に山城があり、武田勝頼の本陣があった。長篠城をはじめ、武田軍の各陣をくまなく眺望できた。今日は雨だったので、本陣跡にはいかなかった。
片葉葦
合戦当時、うっそうとした葦が池一面に生えていた。
武田勝頼の枕元に葦の妖精が出てきて、「合戦をせずに甲斐国に戻った方がいい」と言われたが、その妖精を刀で切ってしまった。それから、葦の葉が片葉になってしまった。
ガイドさんが小さい頃は葦が生えていて、実際に片葉の葦がたくさんあったそうだ。
鳥居強右衛門の墓
この墓碑は、宝暦13年(1763)に建立されたものであることが、看板に記されている。
新東名高速道路・長篠設楽原PA
一般道路から外の駐車場に車を置いて中に入ることができる。
織田信長 戦地本陣跡
パーキングエリア内の遊歩道を5分くらい上る(茶臼山)と織田信長 戦地本陣跡の看板がある。ここで織田信長が詠んだ歌がある。「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」(下の句の「茶臼山かね」は「茶臼山が峯」という意味で詠んでいる)
設楽原合戦場
対面の山と向き合うように、約2.5kmにわたり柵が築かれたが、約1日半という驚異的な速さで作られたとのこと。織田・徳川連合軍は柵の中にいて待ち受けていたので、戦いを起こすかどうかは、武田軍側の意思だった。対面する距離が数百mしかなく、間は川が流れる沼地で騎馬の能力をそぎ落とすこの場所を織田・徳川連合軍は選んだ。この場所を訪れて、ガイドさんの説明を聞くと、織田・徳川軍にとって有利な場所だと良くわかる。戦いは、朝6時頃に始まり、午後2時ごろには大勢が決まり、武田軍は退去し始めたそうだ。
柵は、人は通れるが、馬は通る事が出来ない隙間のサイズとなっている。
設楽原合戦場は、当時の状況がそのまま残っているので、合戦場の北には透明のアクリル板が設置された高速道路(新東名)があり、車を走りながら合戦場を見ることができる。当時の状況がそのまま残っている合戦場は珍しい。
信玄塚
合戦では、武田軍1万人、織田・徳川軍6千人の両軍合わせて1万6千人の人が亡くなっている。大塚には武田軍の戦死者が葬られ、小塚に織田・徳川軍の戦死者が葬られたと言われている。死者数から考えると、辺り一帯に葬られたのかもわからない。
火おんどり
戦死者が埋められた後、蜂の大軍が出たため、成仏しない武田軍の亡霊が蜂になって出たのではないかとなり、近くのお寺に頼んで大お施餓鬼をおこない、蜂を松明で追いながら供養をした。それを後世「火おんどり」と呼び、毎年8月15日夜8時頃からおこなわれていて、その供養が約450年間続いている。
設楽原歴史資料館
地形の模型を見ると、設楽原が狭いことが良くわかる。織田・徳川連合軍が武田軍の騎馬隊に対抗するため、なぜ設楽原で待ち受けたのかが良くわかる。
奥三河ふるさとガイド
「奥三河ふるさとガイド」は、歴史と自然のあふれる奥三河に訪れる際に、郷土史や史跡、文化財、自然等の詳しいガイド役として、楽しい旅のお手伝いをしたいと思っています。 皆様のお知りになりたいことを「奥三河ふるさとガイド」がいろいろユーモアを交えてお話させていただきます。ぜひ旅の想いでにご用命ください。
- 団体窓口
- 一般社団法人新城市観光協会
- 所在地
- 〒441-1384 愛知県新城市西入船5-2
- 電話番号
- 0536-29-0829
コースプラン情報
- コース名
- 長篠城址・設楽原を巡るツアー
- 料金
- 半日まで 3,000円
1日の場合 5,000円 - 開催日時
- 予約により随時実施(年末年始要相談)
- コース時間
- お客様にご希望に沿います
- 予約受付
- 14 日前まで
- お問い合わせ
-
一般社団法人新城市観光協会
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- 土曜日、日曜日、祝日、年末年始(12月29日~1月3日)
- 営業時間
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