寺社巡りコース

毎年7月に山笠が奉納される櫛田神社、弘法大師が開いた東長 寺、博多祇園山笠の発祥の地といわれる聖一国師が開いた承天 寺、そして「博多千年門(はかたせんねんのもん)」を訪れます。

櫛田神社

社伝によると、757年に三重県松阪にある櫛田宮が勧請したと言われている。しかし当時この辺りは砂丘が広がっていて、人がほとんど住んでいなかった。平安時代に入ってから、博多に住んでいる人たちの守り神として、現在に至る。

昔は、櫛田宮・大神宮・祇園宮の3つあった。豊臣秀吉が1587年に町割りをおこなった時に一つ建物にまとめられた。

山笠は祇園社に対する奉納行事で、祇園社の木瓜の紋から、山笠に参加している人は山笠の期間7月1~15日の間きゅうりを食べない。

総鎮守 鎮守様

平安末期になると博多に人が住みだした。海は波が荒く船が沈没するリスクがあったが、唐(中国)物を日本に持ってくると価値が上がるので、交易(物々交換)で博多の町は栄えた。平清盛は博多の交易を手に入れるため、博多を管轄している大宰府を治める立場を得て、強大な資金力を保持するようになった。中世の博多は堺と並んで豊かな街であった。

博多祇園山笠

山笠は7月1日~15日の期間で開かれ、約15mの飾り山笠と、肩に担いで博多の町を走る  約4mの舁(か)き山笠の2種類がある。飾り山笠は、福岡市内に14基立てられる。山笠が終わると、観光用として神社で展示される以外すべて壊す。当初は12~13mある山笠で町を走っていたが、電線が張られて一時中断していた。明治31年に舁き用と飾り用で分けて復活した。

最終日の15日には追い山笠が開かれる。櫛田神社から外に出た塀にある赤の↓ラインがスタートラインになる。朝4時59分は一番山笠が出た後、5分おきに七番まで続く。一番山笠 は毎年順送りで変わる。最後に八番山笠は動く飾り山笠を背負う。

神社に入ったところにある銀杏の木の横に櫓を立てて太鼓が置かれる。

スタートしてから櫛田神社の中にある石の上に俵を置いて、清道旗を立て、この旗の回りを回って、櫛田神社を出るまでの時間を競う「櫛田入り」と街中5kmを走るコースの二つでタイムを競う。八番山笠は、櫛田入り後、コースの一部を舁いてしんがりを務める。

櫛田入りの時間は約30秒で、街を走る5kmのコースは約30分になる。

一番山笠は、清道旗を回ったところで1分間止まって 祝い唄を歌う名誉が与えられる。

「博多町家」ふるさと館

櫛田神社前にある古き良き時代の「博多」の暮らしを紹介する施設で、町家棟、展示棟、みやげ処で構成されている。みやげ処では博多の土産を売っており、小物やネクタイなど、様々な形の博多織製品も売られている。江戸時代、幕府に帯を献上していた博多織は、三大帯の一つ(西陣・桐生)で、厚みがあり、刀を差しても緩まないので、武士に重宝された。他には素焼きで作られている博多人形や薄い板を曲げて作られる博多曲物などが販売されている。

町家は休日のため、中を見ることができなかった。

東長密寺

弘法大師が中国(唐)で西安の青龍寺で修業した後、806年に博多に帰ってきたときに最初に作った寺で、東(日本)に長く真言密教が伝わりますようにという意味が名前に込められている。

寺の敷地内には、1992年に建立された大仏殿があり拝観したが、撮影禁止だった。

唐招提寺に模して建てられている本堂には、ご本尊が弘法大師像・千手観世音菩薩像・不動明王像の3体あり、不動明王像のみ常時見ることができる。他の2体については、年に3回見ることができる。

2011年5月に完成した五重塔は、檜でできていて、中には弘法大師から持ってきたと言われているお釈迦様の骨(仏舎利)が埋葬されている。

五重塔は、地・水・火・風・空をかたどったもので、密教でいう宇宙を表している。

52万3千石の筑前(福岡)藩は、関ケ原合戦の功により黒田長政が藩主となった。

2代目忠之の時代に、寺をこの地に移し、土地や禄高を与えたことから、東長寺再興の祖となっている。2代忠之を始め3・8代の墓がこの寺にある。

承天寺(じょうてんじ)

臨済宗の寺で、1242年聖一国師が建立し、翌年に官寺(国より経済的保障を与えられた寺)になった。

正面の門の左手には、菊の御門が目立つ勅使門がある。その前には「山笠発祥之地」の石碑がある。聖一国師が中国(宋)で6年間禅宗の勉強をした後、1241年に博多に戻ってきた時、博多の町は疫病で多くの人が苦しんでいた。博多の町を若い人に担いでもらって、作った祈祷水を巻いて疫病の蔓延を防いだのが、山笠の起源になる。 

聖一国師が中国に行った時、10人ほどのお付きの人がいた。その中から、うどん・そばのもとになる製粉技術を持って帰って伝えたことから「うどん・そばの発祥の地」の石碑、また布を織る技術を中国から持ってきて、子孫が後に博多織を考案したことから、満田弥左衛門の石碑が立っている。

石碑はもう一つ、聖一国師が托鉢の途中に立ち寄った茶店の主人に、饅頭の作り方を教授の上、看板の字を書いて渡した「御饅頭所」も立っている。

本堂の方丈には、洗濤庭(せんとうてい)という石庭がある。玄海灘を表していて、壱岐・対馬の島々を岩で、庭の向こう側は中国大陸を表現している。洗濤とは、波と波がお互いを洗い、チリが一つもない状況の意味である。

聖一国師が町を回り疫病の蔓延を防いだ時に使用したという施餓鬼棚とその上には聖一国師が書いたという「御饅頭所」のレプリカが飾られている。本物も実在していて、別の方が所有しているそうだ。

博多千年門

福岡市の人口は164万人(2022年12月現在)で、横浜・大阪・名古屋・札幌に次いで多い。

黒田長政は造った城を福岡城と命名した。城の回りも福岡という名前になっていった。明治22年に市の名前を議会で決める時に、武士出身の議員は福岡市を、町民出身の議員は博多市に投票した結果、福岡市になった、その代わりに駅の名前は博多駅となった。

博多千年門は、博多を訪れた観光客を寺町エリアに導くウェルカムゲートとして2014年に建てられた。お寺側の扁額には、聖一国師が中国で修行した万寿寺の住職に寄稿してもらった。「いつまでも続きますように」という意味の「万年正續(まんねんしょうぞく)」の文字が700~800年前の字体で書かれている。博多駅側の扁額には、太宰府天満宮宮司の西高辻氏が今様の文字で「博多千年」と書かれている。博多は1000年前から交易で栄え、これからも1000年繁盛しますようにという意味が込められている。屋根の下には、江戸時代に献上した博多帯のデザイン、献上柄の「独鈷(どっこ)・華皿(はなざら)紋様」が表現されている。 

博多ガイドの会

「博多ガイドの会」は、寺社など歴史文化遺産をはじめとした魅力あふれる博多をより詳しく紹介するため、博多の歴史やおもてなしの心得などについて学んだ博多の観光ガイドです。 地元のガイドだからこそ知っている、博多のまちの魅力を皆様と一緒に歩きながらご紹介していきます。

団体窓口
博多区役所企画振興課内 博多ガイドの会事務局
所在地
〒812-8512 福岡県福岡市博多区博多駅前2丁目8-1
電話番号
092-419-1012

ツアープラン情報

ツアー名
寺社巡りコース
料金
ガイド1人 2,000円
(参加人数 8名まで)
開催日時
9:00〜17:00
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ツアー時間
約120分
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
博多区役所企画振興課内 博多ガイドの会事務局
TEL
092-419-1012
定休日
土・日・祝日
営業時間
9:00〜18:00
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