松坂城跡周辺コース

天正12(1584)年に南伊勢12万石の大名として入ってきた蒲生氏郷が築いた城や町を巡ります。

帯同していただいたガイドさん

お名前
近藤 雅人 さん
ガイド歴
9年
趣味・特技
スポーツ観戦、バイクツーリング、剣道2段、販売士2級
一言PR
史実6割・思い込み3割・?1割でご案内

町割り

海寄りに松ヶ島城があり、松阪の町は元々そちらにあった。現在の町は、天正16(1588)年に蒲生氏郷が松坂城を築城し、その周りに町を作った。町割りする中で、町と町の境に生活排水を流せる溝を作った。町中の至る所にある。右写真は魚町と殿町の境になる。

大手門跡

蒲生氏郷が松ヶ島城に入った時に、海に近く町を大きく出来なかったため、小高い丘(四五百森(よいほのもり))に城を建て、伊勢街道ごと町を移した。

「食い違い虎口」という大手口からまっすぐ城内に敵が進入できないような構造になっている。その当時の面影を残している。

石垣

現在の石垣は、江戸時代当時大手門をくぐった後の石垣がそのまま残っている。

松坂城

蒲生氏郷が築城した松坂城は、その後城主が服部一忠・古田重勝に代わった後、元和5(1619)年に紀州藩領となり、明治時代になるまで続いた。松坂城の坂の字は土(つちへん)を使う。

服部一忠は小平太と名乗っていた織田信長の家臣で、桶狭間の戦いで今川義元の一番槍の功績をあげている。

松阪市立歴史民俗資料館

明治45(1912)年に皇太子行啓を記念して図書館として建てられた。国の登録有形文化財に指定され、その建物を歴史民俗資料館として使用している。

企画展『料理旅館「松泉閣」が紡ぐ二つの物語』

中では企画展が開催されていた。料理旅館「松泉閣」や松泉閣の創業者内田貢が松阪の初午大祭で売られる「ねじりおこし」をヒントに東京浅草の「雷おこし」を発案した話などが紹介されている。また、「松泉閣」が登場する小説「城のある町にて」を描いた梶井基次郎を紹介している。

蒲生氏郷

城下町の経済発展を図るため、「町中掟」を定め、楽市楽座を推進し、有力な商人を外から誘致し、江戸時代多くの豪商が活躍した。

小津安二郎記念館

歴史民俗資料館2階は、映画監督の小津安二郎記念館になっている。小津安二郎のプロフィールや監督をした映画の紹介コーナー、三重県で唯一のロケ地となった「浮草」の紹介のほか、「東京物語」のセットなどが展示されている。松阪のことを地元の人は「まっつぁか」というが、そういうシーンがあるそうだ。

助左衛門御門跡

古田重勝が城主の時、関ケ原合戦があり、東軍についていたが、西軍が伊勢に攻めてきたため、西軍に寝返るべきか悩んだ。家臣の古田助左衛門が寝返らず東軍に付くように進言した。東軍が勝って、松阪を守った助左衛門の功績をたたえ、門の名前に助左衛門の名がついた。

石垣

江戸時代に石垣用として、各所からいろいろな石を持ってきている。転用石として、石仏や石像そして石棺の蓋が使われた。

本丸下段

本丸は上下2段に分かれていた。本丸下段からは、松阪市内の町並みがよく見える。その一角月見櫓には、梶井基次郎の文学碑があり、小説「城のある町にて」の一節が刻まれていて、ここから見た風景が小説に書かれている。

本丸上段

本丸上段の一角にある石垣の上からは、発掘調査により金箔の瓦が出てきているので、天守閣があったと考えられ、復元の想像図が作られている。

松坂城西側

松坂城の西側から山を望むと、お釈迦様が寝そべっている形になっている。その足元の位置にある阿坂城は、松阪を北畠家が支配していた頃、羽柴と名乗っていた豊臣秀吉が生涯唯一矢傷を負ったという話が残っている。また山城で籠城した時に、馬を米で洗って水があるように見せかけたという白米城の別名もある。

桜松閣(おうしょうかく)

明治42(1909)年、本居宣長旧宅移転時に建設された旧鈴屋遺蹟保存会事務所になる。旧事務所を始め蔵・門・塀が、国の登録有形文化財に指定されている。

本居宣長旧宅

元禄4(1691)年築で、国の特別史跡に指定されている。本居宣長が12才(寛保元(1741)年)から亡くなる72才(享和元(1801)年)まで過ごした家になる。書斎の名をとって「鈴屋(すずのや)」と呼ばれている。

2階に本居宣長の書斎があったため、その部屋が覗けるように外にステージが作られている。書斎正面に「県居大人之霊位(あがたいのうしのれいい)」と書かれた掛け軸がある。本居宣長の師匠の賀茂真淵のことで、命日になると掛けていた。古事記を読みたい、日本人の心は古事記の中にあると考え、国学を研究していた賀茂真淵が伊勢神宮に参拝することを聞きつけ、やっとの思いで旅館で会うことができた。会ったのはその時だけだったが、その後通信教育のように伊勢神宮を訪れる人に手紙を渡しながら。江戸にいた賀茂真淵とやりとりした。その手紙が今も残っている。

本居宣長記念館

本居宣長は鈴好きだったことから、書斎名が名付けられている。本居宣長自身が書いた自画像の展示もある。

本居宣長が17才の時に、本や伊勢神宮に訪れる人などから話を聞いて日本地図を書いた。測量はしていない。(伊能忠敬が日本地図を造る70年ほど前)

裏門跡

裏門の一角には、番所があった。番所跡横の石垣の中にハート形の石があり、映えスポットとなっている。

御城番(ごじょうばん)屋敷

御城番屋敷は、左右10軒ずつ並ぶ武家が住んでいた長屋(現在1軒取り壊されている)になる。安政3(1856)年、徳川紀州家の直臣だった20名が、紀州藩家老安藤家の家臣になるように命ぜられたことに抗議し、脱藩したが、数年後に徳川紀州家直臣に戻ることができ、松坂城御城番職に就いた。文久3(1863)年に、20名が家族と共に住むための御城番屋敷が建てられた。明治時代に入り、御城番屋敷を皆で管理しようとなって、現在に至っている。

一番手前の右側の家は、松阪市が借り上げて公開されている。映画撮影によく使われている。

松坂上二ノ丸から

三重県立工業学校赤壁(現三重県立松阪工業高等学校)

明治35(1902)年開校の全国唯一の応用化学専攻の学校で、明治41年に実験で用いる硫化水素による外壁の塗料の黒変を防ぐために、硫化水銀の朱色塗料を使ったことから、製図室は赤壁と呼ばれるようになった。

旧同心町(現 殿町)

400mほどの間に当時は58軒の家があり、同心とよばれた武士たちが住んでいた。生垣が美しく刈り込まれた静かなたたずまいで、今も当時の家屋が何軒か残っている。

新上屋跡

新上屋は、本居宣長と賀茂真淵が一度だけ出会った旅籠跡になる。「松坂の一夜」といわれている。

松阪ガイドボランティア友の会

松阪は人にやさしい町、古い町、歴史や文化のかおる町です。そして、語り部に聞いて、見て、3倍得する松阪の旅(城下町)、語り部とともに歩いてお楽しみください。

団体窓口
松阪駅観光情報センター
所在地
〒515-0017 三重県松阪市京町507-2
電話番号
0598-23-7771

ツアープラン情報

ツアー名
松坂城跡周辺コース
料金
ガイド1名 1,000円(10名まで)
※ 料金は、ガイドの会の協力費となります
※ 昼食をはさむ場合は、ガイドの昼食が必要となります
※ 別途施設の入場料が必要となります
開催日時
9:00〜18:00
ツアー時間
2時間以上
予約受付
14 日前まで
お問い合わせ
松阪駅観光情報センター
TEL
0598-23-7771
定休日
年末年始(12月30日~1月2日)
営業時間
9:00〜18:00
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