歴史の里清川コース

明治維新の魁と言われた清河八郎が生まれ、源義経や松尾芭蕉などが訪れた交通の要衝として舟運で栄えた歴史の里・清川の町並みを巡ります。

清川関所内展示コーナー

清川関所の中では、「庄内藩の参勤交代」というテーマで展示がおこなわれていた。鶴岡から江戸まで向かう参勤交代の絵図「江戸庄内道中記」の写しが展示されていた。どこで昼ご飯や宿泊をしたらよいのか・その土地の見どころは何か・そして宿場間の距離などの情報が載っている。鶴岡から江戸までは約2週間の道程で、絵図はとても視覚的にわかりやすいものになっている。

大庄屋斎藤家

清川に江戸時代陣屋があったが、2度火災にあったため、それ以降は大庄屋斎藤家に殿様用の居間を増築し、参勤交代の時など宿泊所として泊まった。その建物の図面や模型が展示されている。

また斎藤家にあった兜や火事装束の衣装、そして幕末庄内藩主だった忠篤公が書いた書(掛け軸)の展示もおこなわれている。

最上川船着き場「清川」

源義経を書いた軍記物語「義経記(ぎけいき)」によると、京から北陸を通って奥州藤原家へ逃れる途中、義経一行は清川の御諸皇子(ごしょのおうじ)神社に一泊し、清川から最上川を上ったという記述が出てくる。

下写真辺りは河原だったところで、芭蕉像奥のエノキの木に船をつないでいた。1969(昭和44)年11月に国道のバイパスが通る堤防ができて今のようになり、最上川を見ることができなくなった。

川口番所

清川地区は江戸時代、庄内藩の藩境に位置していた。最上川を使った荷物の往来が多いこと、年間3万人を超える人が「東の奥参り」と呼ばれる出羽三山詣での登拝口だったことから、人や荷物の往来を監視する必要があった。

川口番所では、他藩との間を往来する人を監視していた。

船見番所

川口番所横には、舟を監視していた船見番所がある。1階には、最上川の河原のすぐ横に小学校が建っていたことがわかる昔の写真が展示されている。

当時監視ができたかどうかを確認するため2階に上がると、最上川が良く見え舟の往来の監視ができたことがわかる。

御殿林(ごてんばやし)

関所の横には、陣屋(御殿)があった。最上峡から一気に開ける庄内平野に吹き込む風<清川だし>が強く被害が多かったので、陣屋横に1717年庄内藩により3000本の杉が植樹され、御殿林と名付けられている。清川だしは、日本三大悪風の一つと言われるほど局地的な風が吹く。

清河八郎(記念館内は撮影禁止)

清河八郎は、清川で1830年に造り酒屋の家に生まれ、小さいころから勉強熱心だった。内陸(最上川上流)から羽黒山に訪れる人が年間3万人以上あり、行き帰りに清川を通り、強風が吹く<清川だし>と船が止まるため宿泊客が増え、13軒あった宿屋が繁盛した。そのため酒の消費量がすごく、酒の生産量は500石と言われたが、すべて清川で消費された。

18才で江戸に出て、商家の家からはほとんどは入れなかった幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)で勉学を学び、千葉道場で剣を習い免許皆伝の腕前だった。その時に、幕末・明治時代に活躍した山岡鉄舟と出会っている。その後私塾清河塾を立ち上げた。1860(安政7)年に起きた桜田門外の変に大きな刺激を受け、倒幕・尊王攘夷の思想に傾いた。1863年2月14代将軍徳川家茂上洛に合わせ、将軍警護のため組織された「浪士組」の中心メンバーとして京に入った。尊王攘夷を朝廷に上申したため、幕府が不安に思い、江戸へ呼び戻され、同年4月に幕府の刺客により暗殺された。ちなみに「浪士組」のメンバーのうち、尊王攘夷に反対してできたのが新選組だ。

御殿林横には、昭和8年創建で清河八郎を祀られている清河神社と清河八郎に関する展示がおこなわれている清河八郎記念館がある。

官軍墳墓

戊辰戦争での清川口の戦いで、官軍の長州藩士松本茂太郎(18才)と内田百合熊(17才)の2名が亡くなり、官軍が陣を張った山からよく見える場所に墓が建てられた。

「赤心薫萬古」と書かれた石碑の文字は、元首相岸信介より頂いたもの。

墓は戦前までは国が管理していた。戦後は清川の人たちで管理している。

北楯大堰(きただておおぜき)

1600年の関ケ原の戦いで東軍に参加した山形城主最上義光(よしあき)が手柄を立てたので、庄内地方が領地として加わることになり、清川のある狩川城主として北楯大学利長が入った。狩川地区は広大な土地があるが、水がないため荒れ地が多かった。水を引くことができないか10年間かけて調査した結果、月山から最上川に流れ込む立谷沢川(たちやざわがわ)に目を付け、水路を通し水田開発をおこなおうと最上義光に進言し、許可をもらった。

農民7400人動員され、工事がおこなわれた。田植え前の3月から工事を始め、田植えの時期を外し、7月までで10㎞の距離の堰を造った。狩川地区に人桝(ひとます)という地名があり、人数を数え、効率的に人員配置していたそうだ。時間短縮のため、山のすそ野を使って水路を造ったが、山が崩れ、16人が犠牲になり、北楯の殿様が7日間祈祷したという話も残っている。

現在5000haの田んぼに水を供給されている。米どころ庄内平野の礎となっていて、2018年には世界かんがい施設遺産に登録された。水温が低いと稲が育ちにくいため、月山水系の水の温度が低いので、2㎞先で最上川の水と混ぜ、水温を上げる工夫もおこなわれている。

金華山歓喜寺

清河八郎は暗殺された後、同志が首を持ち帰り、山岡鉄舟が小石川傳通院に葬ったが、母親のたっての願いで分骨しここに墓を建てた。墓の文字は山岡鉄舟が書いている。また、両側には両親や妻お蓮などの墓もある。

戊辰戦争で亡くなった庄内藩藩士や農民兵などの墓が、寺の一角にある。

天保飢饉義民15名の墓

飢饉となった1834(天保4)年は、水がなく田植えが遅れ、6月に入ると大雨が降って大水で家が流され、9月には冷夏で初雪が降り、更に地震もあり大変な年だった。

食べるものもなく苦しんでいる村人を助けるため、村の若者16名が年貢の預かり米を保管していた斎藤治兵衛家の蔵に押し入り、11俵の米を盗んだ。たまたま蔵にいた3.4才の頃の清河八郎が見ていて、役人に話したため農民たちは捕まった。2年間牢屋に入れられた後、16名中15名が処刑され、残った1名は2度と同じことを起こさないことを後世に伝えるために生かされた。その後、このお寺の和尚さんが義民として供養した。

御緒皇子神社・仁王門

門の両側に、金剛力士立像がある。神仏混合思想を背景に、御緒皇子神社に1761(宝暦11)年に納められた。

仁王像のあちこちが白くなっているのは、自分の悪いところや直したいところに紙つぶてを貼り、拝んだと伝えられている。

仁王門から270段ほど階段を上ったところに御諸皇子(ごしょのおうじ)神社の本殿がある。創建は不詳だが、身分の高い皇子が当地に流され没した為、哀れんだ住民により祭られたとの伝承が残っている。現在の社殿は、1789年の建立である。

「義経記」によると、源義経がここを訪れ、境内で一晩中神楽を舞ったとある。(1186年)

御諸皇子神社をさらに少し上ったところに、二つの神社がある。一つは船玉神社と金毘羅神社を合祀された神社で、清川に川漁師さんが多いためか、本殿には鯉の彫り物がある。

もう一つは、秋田の太平山を本山とする三吉(さんきち)神社で、山を駆け回る神様ということで、足が丈夫になるように鉄の草鞋やスリッパなどが奉納されている。

大庄屋跡

清川関所に模型があった大庄屋斉藤家の屋敷跡は、空き地になっている。

賽の神

賽の神は、疫病や悪霊から村を守る神また子孫繁栄の神として信仰され、毎年1月3日に祭りが行われていて、村の子供たちが子供の着物を着せた木偶人形を持ち、唱えごとをとなえながら各戸をまわり勧進している。

清河八郎生家跡

建物などは全くないが、塀や石垣などに名残がある。

きよかわ観光ガイドの会

清川は最上川の水駅として発達した宿場町です。 そのため人の往来が盛んで今でも歴史的な価値のある旧跡・文化・遺品が多く残っています。また、源義経の伝説や松尾芭蕉上陸の地、戊辰戦争、明治維新の魁といわれる清河八郎を輩出した所でもある場所を、「きよかわ観光ガイドの会」がご案内いたします。

団体窓口
清川歴史公園・清川関所
所在地
〒999-6606 山形県東田川郡庄内町清川花崎1-1
電話番号
0234-25-5885

ツアープラン情報

ツアー名
歴史の里清川コース
料金
ガイド1名1時間当たり1,000円(10名様まで)
開催日時
4月1日~11月30日
(冬季期間休業)
ツアー時間
約120分
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
清川歴史公園・清川関所
TEL
0234-25-5885
定休日
毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)・12月~2月(冬季期間)
営業時間
10:00〜17:00
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