高知城天守コース

高知城は、初代藩主山内一豊が1603年本丸・天守創建。1727年に焼失したため、江戸中期(1749~1753)に再建された。102の建物があったが、明治の廃城令でほとんどの建物が取り壊されたが、本丸・追手門など15の建物が残った。高知城は、現存する天守閣12城のうちの一つで、15の建物は重要有形文化財に指定されている。

山内一豊銅像

追手門に入る前にある旧図書館入り口には9.4mの高さの山内一豊騎馬像があり、騎馬像としては日本最大級になる。銅像手前にある橋から見る風景は、人に邪魔されずに天守閣を望めるビュースポットとなっていて、天気がいいと天守閣が手前の水面に映る。

天守が建っているところは海抜45mの高さになる。

追手門

城外から中に入る門は全部で4つあったうち、現存しているのは表門になる追手門1つのみになる。門の2階から攻撃できるような櫓門形式で、門の前が桝形になっていて、直角に曲がっている。追手門は、1664年に建て替えられた。

ちなみに、城内には17の門があったうち、現在3つ残っている。

追手門に入る手前の左手の石垣に、カタカナで刻印してある石がある。ガイドさんが指している石(左写真)が高知城で一番大きい石にも、「ウ」の文字が刻印されているが、どういう理由で付けられたかは不明だそうだ。

門を支える鏡柱は、91cm×53cmあり、表面はケヤキ材だが、中はアカマツで造られているそうだ。

昭和20年7月4日に大空襲があり町中が焼けたが、天守閣や追手門(一部焼けた)などは奇跡的に残った(写真奥に天守閣が写っていることがわかる)

板垣退助銅像

追手門を通り、天守閣に向かう階段脇に板垣退助の銅像がある。板垣退助は坂本龍馬より2才下のほぼ同時代に育ったが、坂本龍馬の郷士に対して上級藩士だった。

戊辰戦争では土佐官軍の司令官で、明治に入り参議だったが、西郷隆盛と共に下野し、その後日本で最初の政党を作ったことで知られている。お札には、戦後まもなくの50銭札と百円札の2度登場している。

面白い話として、外遊した時ルイヴィトンのトランクを持ち帰り、現存していて高知自由民権記念館に保存されているそうだ。

階段

階段の踏み台部分の石は江戸時代当時のもの(コンクリート部分は別)で、直角に曲がりながら天守閣に向かう。最初は道幅は広く勾配は緩やかだが、途中から狭くなり勾配がきつくなっている。

石樋

石垣の途中に石樋があり、降った雨をそこから下にある枡で受け、溝に流す排水口のシステムができている。現在15~16か所残っている。高知は雨が多いため、重要な仕掛けとなっている。

山内一豊の妻の銅像

高知市内にある山内神社のご祭神に山内一豊と共に名を連ねていて、山内家にとって重要な人物だが、妻がご祭神に名前を連ねるのは珍しい。 

持参金で山内一豊のために名馬を購入し、その馬が織田信長の目に留まり、出世の糸口となった という逸話があるが、出生地や名前ははっきりしていない。

石垣

石垣は、ほとんど石を加工せずに積み上げた野面積みで、角は算木積みという積み方になっている。石垣に使われている石の多くは、この辺りで採れるチャート岩が多く使われ、一部砂岩が使われている。

石垣の上には櫓が建っていたが、今は残っていない。

詰門(つめもん)の役割

階段を上がり進んでいくと、正面に門が見えてくる。詰門(からくり門)といい、本丸目指してまっすぐ進んでも本丸には到達できないような造りになっている。実際は、右に曲がって二の丸を通って、詰門の2階から本丸・天守閣に向かう。

三の丸から見る天守閣

天守閣を望むビューポイントの一つになる。

天守閣の顔

高知城は別名鷹城と言われていて、土佐漆喰の白壁と瓦葺きの灰色が鷹の羽に似ていることなど諸説あるからだ。

天守閣は、見る方向により二つの顔がある。

石垣と建物のずれの謎

二の丸から多門櫓の石垣を見ると、石垣と建物がずれていることがわかるが、なぜそうなったか不明だそうだ。櫓の中から見ると、床の板がその部分継ぎ足していることがわかる。

詰門の2階

先ほどの詰門の2階は、藩主に謁見する控えの間として利用されていて、当時は畳が敷かれていて、何か所かある敷居には障子がはまっていたそうだ。通路西側には、外からは壁になっている隠し鉄砲狭間が5か所ある。

また、二の丸と本丸の間の堀切を行き来する通路橋としても利用されていて、本丸に通じるところは廊下門がある。

本丸

敷地の広さは、478坪でそれほど広くない。天守閣含めて本丸の形が現存しているのは、高知城のみだそうだ。

本丸御殿

創建当時は絢爛豪華で、初代藩主山内一豊の時代の数年のみ、本丸で暮らしていた。2代藩主以降は、二の丸御殿ができてそちらで暮らしていた。 

本丸御殿の横には納戸蔵があり、素晴らしい彫り物になっているかつての欄間が展示されている。

本丸御殿内の欄間は、シンプルなデザインのものが多い

男性用の乗り物(かご)

納戸蔵には、ほかにも展示されている。

男性用の乗り物は43㎏あり、人が乗ると100㎏程度になるが、それを2人でかつぐそうだ。女性用乗り物はもう少し小さく、きらびやかとのこと。ちなみに、カゴのことを乗り物という。

その横には、木でできた紋があり、藩の船につけていたものだそうだ。土佐出身の岩崎弥太郎が興した三菱のロゴマークはこの家紋を取り入れている。

上段の間

上段の間は、殿様に謁見するときに使用する部屋で、殿様が座る所は一段高くなっている。その横には武者隠し用の扉がある。 

武者隠しの部屋を見ると、それよりさらに高くしてあり、扉をさっと開けることができるように大きい取っ手がついている。天井も高い。

天守閣

1603年に建てられた天守閣は一度焼失し、1749年に再建されたが、創建当時のものを踏襲したといわれる。

天守閣は、3層6階建てで高さ18.5mある。姫路城は同じ6階建てで高さ31.5mあり、1階から6階まで心柱が通っているのに対して、高知城は心柱がなく、2階ごとに柱が独立しているので、1.2階、3.4階、5.6階ごとに柱が分かれている。

石落とし

壁横の床板のカバーを外し、石垣に近づいてきた敵に向かって石や熱湯を落とす細工がしてある。弓・鉄砲・槍などでの攻撃もおこなえる。

梁を金具でつないでいることがわかる。建ててから200年以上経った江戸時代の技術の建物で、床を持たしているのは素晴らしい。

4階まで上ると、窓からは江戸時代に作られた鯱が至近距離で見ることができ、鯱の口元が「阿(あ)」「吽(ん)」となっているところまでしっかりわかる。

天守最上階

人一人が通ることができるデッキがあり、一周でき360度の景色が楽しめる。

夏になると、風が通り気持ちがよくのんびりする人が出てくるそうだ。

多門櫓

東と西二つの長屋状になった多門櫓があり、天守閣・本丸につながりをみせている。

櫓内では、長曾我部氏が支配していた頃の兵士の模型などいくつかの展示をおこなわれていた。

高知は捕鯨漁も盛んにおこなわれていて、その漁風景が展示されていた。

黒鉄門(くろがねもん)

天守・本丸に入るもう一つの門が黒鉄門で、黒い鉄板で門扉ができていて、板塀も黒の墨が塗られている。

長押(なげし)型水切り

高知は雨や台風が多いので、石垣の中に水が入り崩れるのを防ぐための細工として、石垣と塀の間に少し出っ張りを作っている。こういう細工は珍しい。

横矢邪(ひずみ)

横矢邪とは、石垣を内側に緩く円形に曲げ、矢がどこから飛んでくるか解りにくくし、敵を翻弄する造りのことで、こういう造りをしている石垣は珍しい。

忍び返し

石垣と櫓の境に、60㎝ほどの忍び返しがあり、江戸時代から残っている現存するものは高知城だけだそうだ。櫓内で見た石落としも見ることができる。

石垣上部は茶色で下は灰色になっているのは、庇があり比較的に雨が当たらない部分は茶色で、雨が当たる部分は灰色になっている。

土佐漆喰は、発酵させた藁を混ぜて作り、のりを使わないため水(雨)に強いと言われていて、最初はベージュっぽい色だが、数年経つと白くなる。

ツアーを終えて

ガイドさん一番のおすすめが高知城ということで、楽しみにお話しを伺いました。江戸時代当時の天守閣や本丸・追手門など現存しているものを見ながら、ガイドさんに説明してもらうと、当時の状況が目に浮かんできて臨場感が増しました。

土佐観光ガイドボランティア協会

高知の魅力を知っていただこうと、歴史大好き、高知大好きなガイドが、高知市を中心に、おもてなしの心でご案内しています。

所在地
〒780-0901 高知県高知市上町2丁目6-33 龍馬の生まれた町記念館内
電話番号
088-820-1165

ツアープラン情報

ツアー名
高知城天守コース
料金
ガイド1名 2,500円
(ガイド1名につき、町歩きは10名まで、それ以外は20名まで)
開催日時
10:00〜16:00
(12/29〜1/3は除く)
ツアー時間
90〜180分
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
土佐観光ガイドボランティア協会
TEL
088-820-1165
定休日
12/29〜1/3
営業時間
9:00〜16:00
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