鶴崎歴史悠々散歩コース

肥後藩主・清正公の飛び地として栄えた鶴崎地区の史跡および文化を学びながら散策するコースです。

鶴崎歴史案内

鶴崎は、肥後藩の飛び地で、大野川と乙津川の二つの川に囲まれた三角州になっていて、港があり、江戸時代が一番栄えていた。大友氏が失脚する1593年までは大分は一つの国だったが、徳川幕府は大友のような大きな力を持たせないと、6藩の小さな藩に分割させられた。1601年に肥後領を治める加藤清正公が、徳川家康から鶴崎を飛び地としてもらい受け、お茶屋を整備、日蓮宗の法心寺創建、運河工事など街づくりを進めた。一番多い時は13藩の領地に分かれていたこともあった。大友宗麟時代、肥前・肥後・豊後・豊前・筑前・筑後の6つの国を支配していた時もあったが、小藩分離が大分県の特徴と言える。

鶴崎を大きく三つの時代で分けると、大友時代、江戸時代、明治時代に分けることができ、江戸時代の鶴崎は、穀倉地帯を持っていたので、2万石を超える規模であったが昭和38年、大分市と鶴崎市が合併して区画整理がおこなわれ、昔の風情がまったくなくなり、お堀跡や石垣など昔の面影はほとんど残っていないのがとても残念とのこと。

街並み

剱八幡宮(けんはちまんぐう)

その昔、宇佐神宮において、僧侶と神官の争いが起こり、お宝の剱7本を預かっていたが、内3本を紛失してしまった。正保2年(1645)に、楠の大木からその剣3本が出てきた時に、この時の肥後藩主、細川光尚候に、お世継ぎの綱利候が生まれたことで、翌年(1646)剱八幡宮として建立された。

社内に入ると、江戸時代に書かれた参勤交代で鶴崎の港に入港する船団の絵と、毎年4月におこなわれているというけんか祭りの絵がかけられている。

大野川

大野川は、大分県で一番大きい川で、九州では、筑後川に次いで大きい。昔は川の流れがはやく、この水運が活用され、米を始め様々な農産物や加工品が川船や筏で大野川の河口まで運びこまれていた。江戸時代は、米蔵も多くあり、年貢の集積地になっていて、川を町中に引き込み、船が入るような工夫がされていたそうだ。

造船修理・鶴崎作業所跡

有終館跡(兵学校)

大野川の河川敷に、江戸時代 造船修理の鶴崎作業所と兵学校の有終館があった。

鶴崎大神宮

明治時代に入り、お伊勢参りが全国で出来るようにと、明治政府と伊勢神宮が全国に31か所の遥拝所を作ることになった時に、鶴崎は神宮を取るか、県庁を取るかの選択があった。鶴崎の人は神宮を取ったということで出来たのが、この鶴崎大神宮だそうだ。

鶴崎踊会場(鶴崎グランド公園)

毎年盆過ぎの土・日の2日間に、本場鶴崎踊大会が、鶴崎グランド公園で開催される。グランドになる前は、大野川から引き込まれて鶴崎川があり、それに沿って港があり、そこを埋め立てたそうだ。

鉄道の橋脚

橋脚の茶色になっているところは、大野川支流の鶴崎川だったことを示している。橋脚の方向は、その当時の川の流れの方向がうかがわれる。

肥後藩主参勤交代時の船の発着場跡(新堀公園)

新堀公園の北側、日豊線堤防の北側に、港があったという標の石碑がある。

秋山玉山宅跡

鶴崎の出身で、肥後藩主の先生であり、藩校の時習館の提唱、創設者であり初代校長だった人で、学校を作り若い人を育てること、詩集を出版すること、富士山に登ること、の3つの夢を全て叶えたことで知られている。

勝海舟・坂本龍馬の石像

この像は全国から寄せられた浄財作られた石像とのこと。海舟日記によると、「1864年、大阪より海路で佐賀関港に上陸した海舟一行は、徳応寺に宿し、2日目は鶴崎の本陣に宿す」と記されている。石像の下に書いてある詩は、勝海舟ら一行が鶴崎に泊まった時に海舟が詠んだもの。

「大御代はゆたかなりけり旅枕一夜の夢を千代の鶴さき」

(鶴崎の街をほめてくれている詩と地元の方々は思っている)

法心寺

1601年に、加藤清正が創建した日蓮宗のお寺で、母親が熱心な日蓮宗徒だったそうだ。細川家の準菩提寺にもなっている。仁王像は、奈良時代に彫られたもので奈良にあったものが、佐賀関の早吸日女神社から移築され、その後明治時代に入り、法心寺の山門が作られた時、ここに移築された。

鶴崎三大祭りの一つの二十三夜祭は、毎年7月23日の夕刻に開催され、加藤清正の遺徳を偲んで供養する。加藤清正公が鶴崎の港に入港する時は、闇夜が多く、近隣の住民は、松明や提灯、ろうそくなどをかざして、出迎えられたと伝えられたことから、境内に「千灯明(せんとうみょう)」が灯される。豆茶がふるまわれ、加藤清正の甲冑や旗がその時だけ見ることができる。

大きなイチョウの木があり、さかさイチョウといわれ、加藤清正公が法心寺創建の時に、視察に来たとき、熊本城のイチョウの木の枝を杖にして来た、銀杏の枝をこの地に突き刺して、忘れて帰ったかどうかは定かではないが、その時の木の枝が逆さに伸びたといわれている。

毛利空桑記念館

毛利空桑は、鶴崎の少し南の常行村で生まれ、1857年(61歳)の時、肥後藩主とお茶屋の郡代の要請で土地とお金を与えられて、現在地に私塾知来館を建て、名前が判明している、だけでも890名を数え、その他門下生を合わせると、一千名を超える若者を育てている。「文ありて武なきは真の文人にあらず、武ありて文なきは真の武人にあらず」の文武両道を信条とし、厳格な指導をおこなったことで知られている。私塾隣には、居宅(天勝堂)があり、私塾・居宅とも現存し、大分県指定有形文化財となったいる。

知来館(私塾)

天勝堂(居宅)

鶴崎文化研究会

肥後藩主・清正公の飛び地として栄えた鶴崎地区の史跡および文化を学びながら散策するコースです。

所在地
〒870-0106 大分県大分市鶴崎381-1 毛利空桑記念館内
電話番号
097-521-4893

ツアープラン情報

ツアー名
鶴崎歴史悠々散歩コース
料金
ガイド無料
開催日時
9:00〜16:30
ツアー時間
1時間30分
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
鶴崎文化研究会
TEL
097-521-4893
定休日
毎週月曜日(ただし、毎月第1月曜日は開館し、翌日休館。祝日の場合、火曜日休館)、年末年始期間(12/28〜1/3)
営業時間
9:00〜16:30
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