歴史散策・口之津コース

口之津は『天然の良港』を抱えている為、三度の繁栄の時期がありました。450年前、南蛮船来航による南蛮貿易とキリスト教布教の時代、明治に入り三井三池炭の海外積出の時代、そして日本一の船員の町として。その歴史史料を豊富に展示する資料館があり、また、三度の繁栄の時代をほうふつとさせる街並みや風景があり、口之津の歴史と文化を熱く語るガイドと一緒に歩いてみませんか。

概略説明

島原半島は、南島原市口之津地区にある早崎半島辺りで、430万年前に海底火山が起き、隆起したことに始まります。早崎半島にある烽火山(のろしやま)も、その時の火山の一つとのこと。

その後、50万年前に、雲仙火山が爆発的に噴火して、隆起し、その後も噴火を繰り返し、今の形になっていったそうだ。島原半島は、自然公園としてユネスコから認定されている。(日本で最初にユネスコ世界ジオパークに登録された)口之津港は、日本史を3回にぎわせた場所とのこと。

大航海時代

口之津港は、1562年開港で、水深15ⅿの所があり、三方山に囲まれ穏やかなため、大きな南蛮船が容易に来ることができることから、南蛮貿易が盛んにおこなわれたそうだ。東南アジアから生糸や絹織物が入ってきて、諸大名が買い付けに来たとのこと。南蛮船は、偏西風に乗り、夏に来て、冬に帰るパターンなので、数か月間の賑わいは相当なものだったろう。余談として、ヴァリニャーノという宣教師がキリスト教布教のため来日して、織田信長に接見した時に、宣教師が連れていた黒人を気に入り、もらい受け、後に家臣として登用され、信長死後も弥助名として武士として活躍したそうだ。すごい話だ。

石炭輸出港

三池炭鉱で掘られた石炭を、明治10年代~大正時代にかけ、口之津港から上海やシンガポールに向けて、輸出されていたとのこと。明治39年の税関の記録によると、石炭輸出433万円(今のお金で500億円)にものぼっていたそうだ。三池炭鉱に近い三池港(大牟田)は、潮の流れがはやく、大型船が入ることができなかったため、大牟田から口之津港まで小型船で輸送し、口之津で大型船に積み替え、輸出されていた。石炭を積み替えるのに、多くの人夫数が必要だったことがあり、相当のにぎわいだったそうだ。しかし、明治42年に、三池港に大型船が入ることができる閘門(こうもん)ができたため、口之津港は衰退していった。

船員

三池炭鉱の石炭掘削と石炭輸出の運搬を三井財閥がおこなっていて、口之津には三井の支店があったので、運搬の主流が三池港に移ったあとも、口之津の人たちは外航船に乗る人が多くいた。特に、太平洋戦争後、海運業界の好景気と外航船に多くの人が必要だったため、昭和29年に国立口之津海員学校ができ、多くの乗組員が口之津から外航船に乗っていったそうだ。給料は、通常の3倍で、そのおかげで、口之津地区は活況を呈したとのこと。

山田右衛門作(やまだえもさく)

島原の乱で、原城に立てこもった中で、唯一生き残った人物とのこと。宣教師ジョバンニから西洋画を習い、日野江藩お抱えの南蛮絵師となり、日本で最初に油絵を描いた人と言われているそうだ。島原一揆が起こったときに、妻・子を人質に取られたため、原城に天草四郎に次ぐ副将として参加し、交渉役をしていたが、幕府軍と内通した。しかし、内通が発覚し、牢に入れられたが、妻・子は殺された。ほどなくして、原城が陥落し、幕府軍に殺されかけたが、内通の矢文を持っていたため、助けられたそうだ。見学で訪れた場所は、住居跡とのこと。

南蛮船来航の地

当時は、石碑のある辺りまで港で、水深がそれほどなかったので、対岸の口之津歴史民俗資料館側の水深がある方に南蛮船を停めて、小舟で港に上陸したのではないかとのこと。港周辺を唐人町といい、13~14世紀から、中国人が来ていたそうだ。

三井倶楽部跡

港を望む高台にあり、船員さんたちの休憩・宿泊場所だったとのこと。しっかりした材料を使った立派な建物だっただけに、かなり朽ちているのは、とても残念だ。このあたりは、江戸時代は桜町といい、遊郭が立ち並んでいたそうだ。

口之津教会跡

1563年に建てられた教会跡。宣教師アルメイダの書簡の文言から、イエズス会司祭・キリシタン研究者で、長崎市にある日本二十六聖人記念館館長だった結城了悟氏(ディエゴ・パチェコ)と本日のガイドである原田建夫氏が協議して、今場所を特定したそうだ。実際には、崖の上にある墓の所にあったと思われるとのこと。

口之津カンキツ研究試験地(国立研究開発法人)

ここで、デコポンの研究・開発がおこなわれた。現在デコポンは、熊本県果実連が所有している登録商標とのこと。

アコウの木

アコウの木は、いちじくのような実を付け、岩などに張り付く様から絞め殺しの木ともいわれているそうだ。樹齢は、400~500年経っているのではないかとのこと。ちょうど穴の部分が、逆ハートの形になっていて、来た人を喜ばせるらしい。

早崎玄武岩

430万年前に、噴火した痕跡として残っている玄武岩。石が焼け焦げたように黒く、青い空・海との対比が、異様さを醸し出している。あらかぶのみそ汁がおいしいという話は、有家地区の味噌蔵で聞いたが、この辺りでとれるあらかぶ(カサゴ)は絶品だそうだ。また、潮の流れがはやく、一本釣りで釣ったタイもおいしいとのこと。

口之津歴史民俗資料館(口之津税関署跡)

口之津歴史民俗資料館の建物は、明治32年に建築され、税関として使用されていた。当時は、石炭輸出の最盛期で、石炭を積むために、3000トン級の船が横付けできるブイが4つあり、各船の横にハシゴをかけ、1隻あたり500人もの若い娘が石炭を積む作業を行っていたそうだ。そのため、何千人もの人夫が必要だったため、鹿児島の島々から1000人単位で、出稼ぎに来ていて、その中でも一番多かったのが、与論島とのこと。

その他

昭和13年に魚群探知機を最初に作った会社が、奥の黄色い建物のある所にあったそうだ。古野電気という名称で、現在年商800億を超える規模の会社となり、創業者古野清孝氏は、南島原市の名誉市民だとのこと。

南島原ガイドの会 有馬の郷

キリスト教が日本に入ってきてからキリスト教繁栄の時代そしてキリスト教弾圧から島原の乱について、そして江戸時代の潜伏キリシタンについて、有馬キリシタン遺産記念館に展示されています。また、原城跡では、大手門跡~三の丸跡~二の丸跡~本丸正門跡~本丸門跡~天守台跡迄当時の状況を見ることができます。ぜひ、ガイドの話しを聞きながら当時の状況に触れてください。

所在地
〒859-2412 長崎県南島原市南有馬町乙1395 南島原ひまわり観光協会
電話番号
0957-65-6333

ツアープラン情報

ツアー名
歴史散策・口之津コース
料金
1~10名 ガイド1名2,000円(2時間まで)、2時間超える場合、1コマ追加
11~20名 ガイド1名3,000円(2時間まで)
21~40名 ガイド2名6,000円(2時間まで)
有馬キリシタン遺産記念館入場料別途(一般300円・高校生200円・小中学生100円)
開催日時
9:00〜17:00
ツアー時間
60〜120分
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
南島原ガイドの会 有馬の郷
TEL
0957-65-6333
営業時間
9:00〜17:00
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