映像や資料を5分野のジャンルに分類された宮沢賢治の世界との出会いの施設「宮沢賢治記念館」と賢治の童話の世界で楽しく遊ぶ楽習施設「宮沢賢治童話村」を見学します。
南斜花壇
昭和の初め花巻温泉の中のバラ園に、宮沢賢治が設計した南斜花壇は、あえて南の斜面に造り、花壇の一番上にはアケビの棚を設け、ライトを当てる設計だった。受け入れてもらえなかったため、バラ園の中で眠っていた。宮沢賢治記念館の下に、その当時の設計図を基に復元されている。
宮沢賢治記念館
宮沢賢治記念館は、宮沢賢治にとって最もゆかりの深い山の一つの湖四王山(こしおうざん)に、1982(昭和57)年9月21日の命日にオープンし、見学に訪れたときは開館40周年だった。
よだかの星
童話で短編小説「よだかの星」のモチーフが記念館に入る手前にあり、空高く飛んでいるイメージを表している。
日輪と山(水彩画)
館内入ったエントランスには、製作年代不詳の宮沢賢治が描いた水彩画が飾られている。亡くなってから見つかった作品になるそうだ。
宮沢賢治の生い立ち
宮沢賢治は、明治・大正・昭和の時代を生き、37年間の人生だった。生まれた年に明治三陸大津波(明治29(1896)年)、そして亡くなった年には昭和三陸大津波(昭和8(1933)年)が起きている。
太平洋戦争終戦10日前に花巻市で空襲にあった時、高村光太郎が疎開していて、宮沢賢治の遺品を防空壕に入れて守ったという逸話がある。
宮沢賢治の実家は金融業(質屋)をやっていたので比較的裕福で、5人兄弟の長男として生まれた。小学校の成績は、オール甲で成績優秀だった。中学校は、盛岡中学校(岩手県に4校しかなかった)に進学した。
中学校卒業して一回実家に戻り、家業を手伝っていたが、貧しい農民相手に商売をすることに抵抗感があったので、親が見かねて進学を進め、盛岡高等農林学校(岩手大学農学部)に首席で入った。家業は弟さんが継ぎ、弟さんは平成に入ってから96才で亡くなっている。
中学卒業後2年間研究生として残り、地質・土壌調査を行った後、郷里で農学校の教師となったが、4年4カ月で辞めた。花巻は米があまりとれず農民は貧困で困っていたので、安定した生活が送っている教師の立場で「農業を継げ」と言うことに耐えられなくなった。その後、一般の農民に収穫が上がるように農業を教えるため、羅須地人協会(名前の由来不明)を設立したが、社会運動を先導しているのではないかと疑われ、長続きしなかった。その頃肺の病いにかかった。自宅に戻って療養しながら文芸の創作活動をおこない、たくさんの作品を創った。
亡くなる2年前に病状が一旦良くなったので、東北砕石工場の技師として、米の収穫量を上げる(悪い土壌に石灰を入れて中和する肥料)普及活動をおこなった。しかし東京に出張していた時、喀血した。この頃、遺書とともに手帳に「雨にも負けず・・」という詩を書いている。
農学校教師の頃、校舎裏手でプロのカメラマンを使って撮った写真で、ベートーベンのしぐさを真似た。宮沢賢治のイメージとはそぐわないエピソードだ。賢治はクラシックが大好きで、レコードを買う量が地元で有名だったそうだ。
イギリス海岸
農学校教師時代に生徒とよく遊びに来ていたところで、賢治は散文「イギリス海岸」で、広く露出する青白い凝灰質の泥岩が、強い日差しで乾き真っ白に見える岩の上を歩くと「全くもうイギリスあたりの白亜の海岸を歩いているような気がするのでした」として、イギリス海岸と命名した。
北上川の川底が泥岩層になっていて、ドーバー海峡の地質と同じで、クルミや動物の足跡の化石を見つけることができる。ダムのない時代はいつでも見ることができたが、現在は5つのダムで水量が調整され、川には通常水があるため、川底を見ることができない。観光客は見たいと要望があるため、1年に1度9月21日の命日にダムを止めてみることができる。
小パネル
「農」
農学校教師時代の自筆の時間割や羅須地人協会時代の書類や写真などが展示されている。英語・化学・農業実習などを教えていた。くつろいでいる職員室での写真もあった。
「芸術」
宮沢賢治は、短歌1000首ほど詠んでいて、詩は800編・童話は100話制作している。いくつもの原稿(レプリカ)が展示されていて、中には宮沢賢治の最も身近な理解者で24才で亡くなった妹を悼む詩「永訣の詩」の原稿もあった。
音楽にも興味を示し、高価なチェロを買って東京まで習いに行ったが、うまく弾けなかったそうだ。これをヒントに、「ゼロ弾きのゴージュ」に作られたのではないかとのこと。
コーナーには譜面もあった。「星めぐりの歌」を作詞作曲していて、現在花巻の町に夕方流れている。
「科学」
石(鉱物)にもとても興味があり、相当の数の標本があった。
「宗教」
宮沢賢治は法華経に改宗した後、父親に勧めたが、浄土真宗だったため、首を縦に振らなった。賢治が亡くなる日の11時30分頃、正座をして「南無妙法蓮華経・・」とお経を唱えていたので、家族は最後だと感じ、「何か言い残すことはないか」と聞いた。表紙は朱か赤にし、巻末には「私の最後の仕事はこの経典をあなたに届けるため」と書いて、国訳妙法蓮華経の本を1000冊作って、友人・知人に分けてほしいと願ったそうだ。宮沢家は賢治が亡くなってから、法華経に改宗した。
「宇宙」
「銀河鉄道の夜」の原稿を、宇宙飛行士の野口さんが宇宙に持って行ったという紹介コーナーがあった。
宮沢賢治の手帳
見学に訪れた時、特別展が開かれ、「雨に負けず・・」で始まる詩が書かれた本物の手帳が展示されていた。手帳は、東北砕石工場で働いていて東京に出張した時に、愛用していたカバンの内ポケットに旅館の便せんに書かれた遺書とともに忍ばせてあり、亡くなってから手帳が見つかっている。書いた2年後に亡くなっている。
ガイドさんも初めて見たそうで、手帳はセピア色していて年数が経ったものだとわかる。
宮沢賢治は、生前に出版した本は自費出版の「春と修羅」と童話「注文の多い料理店」の2冊だけで、まったく評判にならなかった。「注文の多い料理店」は東京の出版社から出したが、料理本の横に並べられ、まったく売れず、自分で買い取った。高村光太郎や草野新平など一部の文壇の著名人からは評価されていたが、生きているときには無名だった。
宮沢賢治童話村
賢治生誕100年祭に合わせて造られた童話村の入り口は、ジョバンニとカンパネルラがこれから銀河鉄道を旅するイメージになっている。中には、「賢治の学校」と「賢治の教室」があり、見て触れて楽しめる造りになっていて、子供たちに人気の施設だ。
月夜のでんしんばしら
入口を入って右手には、「注文の多い料理店」に出てくるワンシーン、夜中に電信柱が行進する様の風景が出てくる。
妖精の小径
電信柱の横の道を進むと、二つのベンチがあり、そこに座ると童話が流れてくる。さらに進むと、晴れた昼は森林浴を楽しみ、夜は幻想的な雰囲気を楽しむことができる。(7月~10月の間は夜間営業がおこなわれている)
賢治の学校
建物の外には、星座を表しているスペースや見る位置によって自分の姿が見えたり見えなかったりする不思議な鏡や錯覚に陥る階段があり、工夫が凝らされている。
建物の中には5つの不思議の部屋がある。
ファンタジックホール
天井が高い空間に椅子が何個が置いてあり、座ると足元には童話の一部分が書かれている。
宇宙の部屋
真っ暗で、大きな万華鏡の中に入ったような感じだ。
天空の部屋
空の上から見た風景が足元に広がる。
そのほかには、「大地の部屋」「水の部屋」がある。
石の部屋
別棟に、宝石などの鉱物が展示されている「石の部屋」がある。
賢治の教室
鳥の部屋
宮沢賢治の童話には鳥がよく登場する。一瞬暗くなって鳥が浮き出てくる仕掛けや鳥の鳴き声・飛んでいる姿を見ることができ、鳥を学べるような工夫がしてある。
星の部屋
星の形を自分で作れるパネルがある。
動物の部屋
床にいくつかの足跡があり、たどっていくと動物の種類がわかり、コーナーに近づくと鳴き声を聞くことができる。
植物の部屋
賢治の作品に出てくる植物が展示されている。
ショップ・物産館
花巻の名産品が並べられている。
花巻おもてなし観光ガイドの会
花巻の歴史や自然・人物に詳しい花巻大好き人間が、定番観光施設から、 あまり知られていないおすすめスポットまで、花巻弁を交えながらユーモアたっぷりにご案内! 1人から団体まで対応可能で、ガイド日の1週間前まで受け付けています。旅の思い出がより深く、 印象深くなる観光ガイドとの花巻めぐり。お気軽にご利用ください。
- 団体窓口
- 花巻観光協会
- 所在地
- 〒025-0004 岩手県花巻市葛第三地割183-1 花巻観光協会
- 電話番号
- 0198-29-4522
ツアープラン情報
- ツアー名
- 宮沢賢治記念館・童話村コース
- 料金
- 無料(ただし、拝観料等は別途)
※交通費や昼食が発生する場合のガイド分は負担願います。
- 開催日時
- 9:00〜17:30
(12/28〜1/3は除く) - ツアー時間
- 約120分
- 予約受付
- 7 日前まで
- お問い合わせ
-
花巻観光協会
- TEL
- 0198-29-4522
- 定休日
- 土日・年末年始
- 営業時間
- 8:30〜17:30