塩田川の海運と長崎街道の宿場町散策ツアー

塩田川の海運と、長崎街道の宿場町と、二つの顔を持ち、栄えた町です。歴史と文化に触れてみませんか。

概略説明

「塩田津」は、江戸時代の長崎街道の宿場の一つとして、そして、有明海の干満の差を利用し塩田川を上り、有田・伊万里・波佐見などの陶磁器生産地で使う(天草)陶石の水運の拠点の港として、栄えた歴史を持っている。2005年には、重要伝統的建造物群保存区域に選定され、町の保全が図られている。

港として

有明海から塩田津まで6kmあるが、干満の差を利用し、川港として利用された。特に、天草から陶石が運び込まれ、ここから有田・伊万里・波佐見などの陶磁器生産地へ原料として運ばれたため、大きく栄えたとのこと。また、陶石を砕き、陶土にして生産地へ運ばれたため、陶土業としても栄えたそうだ。特に、明治時代に入ると、塩田川の上流や支流で水車を使って、最盛期は60軒ほどの水車小屋があったとのこと。

1964年には、それまで人力に頼っていた積み下ろしをクレーンで行われた痕跡のコンクリートの建造物が見受けられ、クレーンで船からトラックに積み替えられ、(この項目の最後の写真の見学者の足元にある)計測器で計られたそうだ。

旧下村家

 江戸時代こんにゃく屋をやっていた家。玄関の大戸を持ち上げ荷物の出し入れがしやすいようにする吊大戸やしとみ戸という窓の仕掛け(昼は障子で、夜は板戸にする)は、商家はどこもあったそうだ。旧下村家には、町家としては珍しい船底天井などもある。

町並み散策1

塩田宿には、4つのお寺がある。

  • 1391年創建の生蓮寺(しょうれんじ)で、浄土宗のお寺。三升もの大柄杓(ひしゃく)で、米や麦が奉納されていたそうだが、柄杓は現存していない。石垣は、石材を六角形に加工して積上げる亀甲積みで、塩田石工の技術の高さを見て取れる。
  • 1586年に建立された浄土宗の本應寺(ほんのうじ)。別の項目で詳しく説明する。
  • 708年奈良時代の高僧 行基 が開いたといわれている真言宗のお寺の常在寺。京都仁和寺の荘園(塩田近郷)を管理していたお寺。石段中腹には、1825年塩田石工により作られた高さ2.4mの一対の仁王像がある。高台の境内からは、塩田津一帯を始め、多良連山、有明海、雲仙などが望める。
  • 1584年創建された浄土真宗の立傳寺(りゅうでんじ)。子供たちに手習いを教えたのが、始まりと言われている。

町並み散策2

街道から本應寺に向かう角の家は、昔呉服屋さんで、テレビをいち早く入れたため、1957年頃、プロレス中継の時には人だかりだったそうで、車に気を付けながら見ていたとのこと。その家の板塀にある花が植えられている瓶を見て、口の形状の一つ違うものがあった。ガイドさんの話しによると、その一つは、朝鮮半島に輸出していた朝鮮便器といって、冬の寒い時期に使う女子用の室内トイレだそうだ。いろいろな使い方があるものだ。

本應寺

対面になる生蓮寺の亀甲積みの石垣とは対照的に、石垣の石がばらばらに積まれている。野面(のずら)積みという工法で、石と石の隙間を雨が流れ、頑丈だそうだ。石段を登ると、山門がある。文献によると鐘楼と書いてあるが、鐘がないので山門でいいのではないかとのこと。門の両脇には、2体の仁王像がある。高さ2m弱で、ユーモラスな表情をしていて、地元の塩田石で造られている。像横の石碑には、願掛けをするためにあけられた、盃状穴(はいじょうけつ)という穴が随所にみられて、奈良時代から続く風習だそうだ。

門を入ると、右手に1744年建立の本堂と庫裏があり、江戸時代長崎の港を警護するため、街道の行き帰り、ここで鍋島藩(佐賀)と黒田藩(福岡)の殿様が泊まる本陣として利用されていた庫裏には、「お成りの間」という立派な装飾品や庭のある奥座敷があり、現在保育園・小学校・中学校の卒業の時期にお茶の体験をしているとのこと。そのほかにも、法然上人が描かれている絵巻物や江戸時代に増上寺の大僧正が書いた本堂の扁額など優れたものを所蔵されているとのこと。

御蔵と焼き物

本應寺横の崖下には、江戸時代の年貢米貯蔵施設だった御蔵があるが、元々は本應寺横の保育園の場所にあったそうだ。明治時代に入り、御蔵を今の場所に移し、元の場所に登り窯を作り、痰壺(たんつぼ)・火鉢・日用陶器などを作っていたとのこと。痰壺は当時、結核が流行り、公衆の集まる場所に設置されて、需要があったそうだ。今でも敷地内に多くの壺が置いてある。

江口家

本應寺の横を通り、御蔵を下に見ながら下っていくと、江口家の横の御蔵馬場に出てくる。建物の造りが、コの字になった佐賀地方独特の建築技法「くど造り」になっていて、コの部分に坪庭がある。塩田津は、江戸時代から今まで5度の大火を経験しているので、火事対策の一つとして、軒下から壁にかけてカーブにして、火事の延焼を防ぐことが目的だそうだ。

江口家は、米を商う米屋で、ここから荷運びをするため、牛・馬をつなぐ駒つなぎといわれる金具で、唐草模様の木の細工物(持ち送り)が見受けれらる。

町並み散策3

明治時代長崎本線ができたとき、当初は佐賀から武雄を通って長崎に行っていたため、武雄から祐徳神社までを鉄道でつなぐ目的で、馬鉄と呼ばれる馬車軌道が開通させた。その後、街道の幅を広げる必要があったため、山側へ約3.6m家々を曳いて動かしたそうだ。すごい作業だったろう。それから、馬から蒸気機関車に変わったとのこと。しかし、昭和に入ると、長崎本線が祐徳神社近くを通るように変わることになり、廃止されたそうだ。国道498号線は、その名残りで、道はなだらかなカーブで鹿島市から武雄市までつながっているそうだ。

町並み散策4

江戸時代は廻船問屋として栄えた西岡家の家の中を、通常は見学できるが、行った時がコロナの影響で、閉まっていた。客間は、座敷の間の欄間(らんま)が、大川の組子細工で作られていたり、釘隠、ふすま、天袋・地袋の絵画、付書院など素晴らしい意匠を目にすることができたそうだ。建物の梁や天井・廊下及びトイレの内部全てに、漆が塗られている。

建物の作りとして、右・左どちらか半分がすべて土間で、残り半分が座敷になっているのが一つの特徴で、併せて漆喰で固めた白壁造りの町家を、居蔵造(いぐらづくり)といわれている。昭和40年代までは、街道沿いのほとんどの家が同様の作りだったそうだ。壮観だったと思う。

塩田津町並みボランティアガイド連絡会

長崎街道の宿場町としても、有明海の干満の差を利用した川港としても発達し栄えた塩田津。やきものの原料や、ニシンや昆布など全国各地から集められた物資の取引で財を成した商家がズラリと軒を連ねています。塩田津は幾度となく火災や川の氾濫などに襲われたため、建物は風水害に強い漆喰造りの「居蔵造」と呼ばれる大型町屋スタイルが特徴。歴史的な景観が残る町は、国指定重要伝統的建造物群保存地区であり、塩田石で作られた仁王像や恵比寿像などの石像物を各所でみることができます。

所在地
〒849-1411 佐賀県嬉野市塩田町大字馬場下甲694 塩田津町並み保存会内
電話番号
0954-66-3550

ツアープラン情報

ツアー名
塩田川の海運と長崎街道の宿場町散策ツアー
料金
5名まで 500円
6名以上 100円/人
20名以上(バス1台)2,000円
開催日時
10:00〜17:00
ツアー時間
基本コース 60分
時間は相談に応じますので、お気軽に問合せください。
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
塩田津町並みボランティアガイド連絡会
TEL
0954-66-3550
定休日
月曜
営業時間
10:00〜17:00
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