
世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成遺産(造船部門)の一つである三重津海軍所跡の説明とそれに関わった佐野常民の功績について、ガイドをします。
みえつドームシアター
三重津海軍所創設に至る幕末佐賀藩のストーリーを、まずは映像で見て、基礎知識を得る。
みえつSCOPE(スコープ)
記念館の外に、海軍所跡の広場があり、海軍所があったころの状況を1~6の旗を目印に回りながら、受付で借りたスコープとイヤホンを通して説明を聞く。
三重津海軍所の概略説明
三重津海軍所跡は、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成遺産(造船部門)の一つとして、2015年7月に登録された。1865年に、日本初の実用蒸気船「凌風丸」がここで建造されて、三重津海軍所の広さは3.1haで、今は空き地の状態だが、元々あった場所である。
舟屋地区
1855年に幕府が長崎に海軍伝習所を設立し、佐賀藩から佐野常民を始め48名の兵士が参加した。佐賀藩もオランダの蒸気船を購入し、大きな船を動かすための操縦士を育てるため、1857年に「御船手稽古所」を創設され、舟屋地区は三重津海軍所で最初にできたところで、300名の兵士が訓練を受けた。小屋の長さは52mで、杭が今でも残っている。しかし、長崎の海軍伝習所は、1859年閉鎖されたが、佐賀藩としては、今後も海軍の力は重要と訴え、三重津海軍所の拡張が図られた。13艘の船を持ち、日本屈指の海軍力を誇った。
稽古場地区
大砲を打つ練習が行われた場所だが、実弾は2000m飛ぶため、実際には使われていないと思われる。その理由として、薬きょうは一つも出土されていないので、空砲でおこなわれていただろうと推測されている。また、その他の訓練もここで行われた。
修復場地区の製作場
三重津海軍跡で、最初に掘削されたところ。船に使った鋲・くぎ・石炭・ロープなどいろいろな物が出土された。出土品は、記念館の3階に展示されている。
修復場地区の石組遺構・三連溝状遺構
実際に金属部品の作業が行われた加工場跡。石組みが残っている。
ドライドックの木組護岸遺構
長さ約60m、幅約20mの巨大ドック。残念ながら保存状態を守るため、一旦掘り起こしたものを埋めてあり、実際に見ることはできない。しかし、このドックが出てきて、船の建造・修理が行われていた事実が確かなものとなり、世界文化遺産の構成遺産として認められたそうだ。有明海の最大6mの干満の大きさを利用し、ドックへの出入りを行っていたとのこと。潮が満ちる時に船が入り、入ったら門を閉め、潮が引くときに船が出る。1861年にはこのドックはできていたそうだ。オランダから購入した巨大船「電流丸」の銅板でできた底板の交換などが行われた。日本最初の実用蒸気船「凌風丸」もここで建造された。明治に入り、1870年(明治3年)には、閉鎖されたそうだ。
佐野常民常設展(佐野常民記念館2階)
写真撮影禁止のため、写真なし
<展示パネル・映像で、佐野常民について紹介されている>
佐野常民 (1)
- 佐野常民は、1823年に記念館のある佐賀市川副町に生まれで、幼少のころから秀才の誉れ高く、藩校講道館で学問を学び、14才で江戸に出て儒学・中国語を学んだ。
- 次に京都で、化学を学んだ。その時に学んだ仲間を後に、佐賀藩に呼ぶことになる。(23才)
- 次に大坂で、緒方洪庵から医学を学んだ。その時の教えの一つとして、「不治の病だとしても、最後の最後まで見捨てるな」という言葉が突き刺さったとのこと。その後の生き方の指針の一つになったかもしれない。(25才)
- 次に紀州で、華岡青洲が開いた塾で、医学を学んだ。(26才)
- 次に江戸にもどり、同郷の伊東玄朴の塾頭として、医学を学んだ。(27才)その後、佐賀に戻った。
佐野常民 (2)
佐賀藩に化学薬品・カメラ・電信機・ガラスそして蒸気機関の製造をするために、精錬方という部署が1852年に発足し、佐野常民は1853年に主任として入った。学問の優秀な仲間を京都から、田中久重、田中儀右衛門、石黒寛次、田中奇輔の4人を呼び寄せた。特に、田中久重は、当時すでにからくり時計を作り、「からくり儀右衛門」として名を馳せていて、明治に入り、東芝の礎を築いた。佐野常民の人望とともに、京都からの参加者たちは、蒸気機関の製造の魅力があったのではないかとのこと。その後3年の年月をかけ、蒸気機関車の製造に取り組んだ。
佐野常民 (3)
1855年に、長崎に海軍伝習所ができ、各藩にも門戸が開かれ、佐賀藩は幕府と同じ佐野常民をはじめ48名を送り込んだ。ペリーの来日が1853年だったことから、海軍の重要性が増したことが考えられる。ここで3年間の習得を経て、1858年に佐野常民の地元に三重津海軍所が設立され、長崎で習得した技術をもとに、1865年に日本初の実用蒸気船「凌風丸」が造られた。
佐野常民 (4)
1867年パリ万博、1873年ウィーン万博の2度渡欧していて、海外製品や技術の見聞を広め、日本近代化に貢献したり、逆に日本製品を売り込むために、1877年に開かれた内国勧業博覧会の開催に貢献し、「博覧会男」といわれた。また、日本美術の海外流出を防ぐために、龍池会を設立し、芸術家の保護と育成に尽力を尽くした。そして、大蔵卿、元老院議長を行い、政治家としての顔も持っていた。
佐野常民 (5)
万博に出向いたときに知った国際赤十字の考え方(敵・味方区別なしに負傷した兵士を看護する活動)に感銘していた佐野常民は、1877年西南戦争が起こったときに、この精神をもとに活動したいと政府に申し出たが、「敵を助けるとは何事か」と無碍もなく断られた。しかしあきらめきれない佐野常民は、当時熊本にいた政府軍トップの有栖川宮熾仁親王に申し出、逆に敵をも助ける志に感銘し、許可をいただく。博愛社という名前で、熊本で発足。その10年後の1887年に、日本赤十字社の名前になり、1864年に設立された国際赤十字社に加盟。
佐野常民記念館3階
3階にエレベーターで上がると、ドライドックの実寸の大きなパネルがあり、圧倒されるとともに、木枠で作られたことが良く分かる。そのほかに、発掘された物の展示や三重津海軍所の紹介パネルや模型などが展示されている。

佐野常民記念館博愛ボランティア
幕末から明治にかけて政治・産業・科学・芸術と幅広い分野で活躍した佐野常民の生涯を学ぶことができる佐野常民記念館のガイド。おもてなしの心を大切に、激動の生涯を分かりやすく紹介してくれます。また佐野常民が尽力し、国産初の実用蒸気船を完成させた「三重津海軍所跡」も合わせて案内。みえつスコープを使って当時の景色を眺めることができ、時代を先取りした功績を深く知ることができます。
- 所在地
- 〒840-2202 佐賀県佐賀市川副町大字早津江津446-1 佐野常民記念館内
- 電話番号
- 0952-34-9455
ツアープラン情報
- ツアー名
- みえつコース
- 対象
- 1人~団体まで対応
- 料金
- 無料
※佐野常民展示室観覧料 大人300円・小人100円 - 開催日時
- 10:00〜17:00
(スコープ受付〜16:30)
※佐野常民記念館リニューアル工事のため、2021年1月~9月までは休館 - ツアー時間
- みえつコース 約60分
- 予約受付
- 7 日前まで
- お問い合わせ
-
佐野常民記念館博愛ボランティア
- TEL
- 0952-34-9455
- 定休日
- 月曜(休・祝日の場合、翌日)
- 営業時間
- 10:00〜17:00
(スコープ受付 ~16:30)