佐賀関町並み散策

1864年、勝海舟、坂本龍馬が佐賀関を訪れたときの様子を聞いたり、当時の町並みを散策しながら巡ります。

見どころ・聞きどころ

概略説明

佐賀関の歴史探索の案内を受けるが、その中でも勝海舟・坂本龍馬が訪れた当時の佐賀関の様子をお聞きする。佐賀関に上陸した場所から海舟・龍馬が宿泊し、その時の様子が書かれている「日本人物誌」が残る徳応寺、そして関の権現様が祀られているという早吸日女神社を見学し、説明を聞くことができた。

  1. 海舟・龍馬上陸の地の説明
  2. 徳応寺までの町並み散策
  3. 徳応寺での説明
  4. 徳応寺から速吸日女神社までの町並み散策
  5. 速吸日女神社での説明

海舟・龍馬上陸の地の説明

江戸時代、大分・熊本・長崎を結ぶ街道の一つとして、佐賀関が海洋交通の要になっていた。神戸から佐賀関まで船で、佐賀関から熊本・長崎までは歩いて行った。明治初期に出来た佐賀関から鶴崎までの海沿いの道ではなく、山側の道を使って鶴崎まで行っていた。山側の道は、峠道で明治以降人が通らなくなり、荒らされず保存されている。毎年小学6年生向けに、歴史の講座を開いて峠道を歩いたり、街歩きをする企画をおこなっている。

徳応寺までの町並み散策

高田屋

勝海舟たちが佐賀関に来た時、町をあげて接待したという記録があり、高田屋は、「ご給仕人」として活躍した。

竹田屋跡

造り酒屋「竹田屋」があった場所に、江戸時代当時の街並みの地図が提示されていた。そこには、佐賀関の三つの主要道路に沿って、いくつもの屋号が立ち並んでいる。当時、旅籠やお店などの接待用の屋号で、その数90軒もあったそうだ。佐賀関と愛媛の佐田岬の間の豊予海峡は狭いため、潮流が大変早く・波が荒く、速吸瀬戸(はやすいのせと)といわれた。交通の難所で、波の状況を見て船が出ていたため、一旦佐賀関に入り状況を見ることが多いため、旅籠屋が多かったとのこと。

小松屋

小松屋は、勝海舟一行70人余りの人が泊まったので、分宿の一つとして利用された。

徳応寺での説明

徳応寺

徳応寺は、浄土真宗本願寺派で、戦国時代末期から400年以上続いているお寺。現在15代目の住職で、10代目の龍潭和尚が海舟・龍馬が来た時の様子を詳しく書いた絵日記「日本人物誌」が、今の住職により発見された。現物を見せていただきながら、住職のお話しを聞く。

江戸時代末期の時代背景

1853年に、アメリカのペリ―が下田の浦賀に来て、日本との貿易を迫り、1858年に日米修好通商条約を結ばれた。領事裁判権(外国人を日本で裁けない)と関税自主権がないこと(日本が関税率を決めることができない)があり、不平等条約となった。フランス・イギリス・ロシア・オランダとも同様な条約を次々と結んだ。全国の大名たちは、弱腰の幕府に対して、倒幕を唱えるようになり、幕府の代わりに天皇を立て、異国を追い払おうとする尊皇攘夷運動が起きる。

下関事件

討幕派の筆頭が長州藩で、1863年5月に、下関に砲台を設け、関門海峡を通る船を片っ端から撃つ事件が起きる。アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4か国が怒り、仕返しを仕掛けた。イギリス艦隊を出島に送ることになり、幕府に対しては、「賠償金と長州藩の首謀者を出せ」と言ってきた。幕府としては、長州藩をつぶしてくれるなら、幕府側にとっても都合がいいが、長州藩への攻撃は言いがかりで、日本への侵略戦争に発展する可能性があり、幕府はこの戦争を止める必要があった。

この交渉役に抜擢されたのが、勝海舟だった。勝海舟は、1860年に威臨丸に乗って、艦長としてアメリカに行っている。その時に、ジョン万次郎も同行していて、実質的には艦長だったらしい。

海舟日記

勝海舟が書いた海舟日記によると、1864年2月10日に、京都の所司代に呼ばれ、「長崎出島に行き、戦争を中止か延期する交渉をしてきてほしい」と言われ、金子500両と金10枚をもらい、2月11日にただちに神戸に戻る。2月12日に旅準備をし、2月13日は大風で、14日に出発した。15日五つ時(午前10時ころ) 豊前(実際は豊後なので書き間違い)佐賀関に着船 即ち、徳応寺へ止宿 と書いてある。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」

「龍馬がゆく」では、佐賀関を通らず、馬関海峡(関門海峡のこと)を通って、佐賀の伊万里港に入ると書いてあり、NHKの龍馬伝でもそのような描き方になっている。1864年2月当時、馬関海峡は危なかったのではないか、長州藩が砲台を構え、片っ端から船を狙っていた。実際には、佐賀関を通っていたので、司馬遼太郎がこの事実を知らなかったのか、謎である。

神戸~佐賀関~熊本~長崎(豊後街道[肥後街道])

肥後藩主になる加藤清正が、関ケ原の戦いで手柄を立て、領地をもらい受ける時、豊臣家を大事にしていたので、何かあった時には、真っ先に駆け付けるため、できるだけ最短距離で行けるように、飛び地領をもらい受けた。それが、佐賀関、鶴崎、野津原、今市、久住で、後に参勤交代のために、街道が整備され、熊本からは豊後街道、大分からは肥後街道と呼ばれている。

徳応寺の「日本人物誌」について

本堂の一角に、何百冊の和綴じ本があり、その中に「日本人物誌」と書いた本を住職が発見し、中を見ると勝麟太郎、坂本龍馬の名前が出てきてびっくりした。2巻見つかっているが、見つかった本には「参」の字が読めるので、まだほかにもあることがわかっている。今後調査をする予定だそうだ。

その他にも、「日本人物誌」の中の記載に、鍋島公(佐賀藩)・細川公(熊本藩)・島津公(薩摩藩)が徳応寺に泊っていることが書いてある。他の宿場にはお茶屋があるが、佐賀関にはなかったので、徳応寺がその役目を担っていたようだ。

徳応寺が宿泊場所として選ばれた理由として、立地条件があり、徳応寺が小高い山の上に立っていて、自然の要塞のようになっていることと、本堂の2階に上がる階段がわかりにくく何かあった時に隠れることができた家の造りがあったのではないかとのこと。

長崎丸

文久4年(1864)2月15日に、海舟・龍馬一行は長崎丸に乗って佐賀関に着いた。煙を吐く蒸気船「長崎丸」の絵には、日の丸の国旗がついている。このころから外国船と区別するため、日の丸が使われるようになったようだ。乗組員70名余りという記載もある。2月15日に、勝海舟が拙寺に来たと書いてあり、海舟日記と期日があっているので間違いないことがわかる。

上下31人と書いてあり、勝海舟以外にどういう人が来たかと書いてあり、船将という言葉がある。これは、軍艦のキャプテンのことで複数いて、医師の表示もある。軍艦関係者は1日だけ泊まり、大坂に帰っている。長崎に行ったのは、勝海舟と塾生のみでその中には坂本龍馬がおり、2月16日に徳応寺に出発し、海舟日記によると、出島に23日についているので、8日間かかって出島に着いたことがわかる。

住職の話しによると、坂本龍馬にとっての長崎での滞在は、重要な1か月だったはずで、グラバーから武器の売買を学び、グラバー邸内には、坂本龍馬らをかくまう部屋もあるそうだ。翌年(1865)には、亀山社中を起こしているので、この時の長崎滞在が原動力になったのではないかとのこと。

海舟・龍馬の帰途

出島での交渉で、長州藩への攻撃を2か月間の猶予をもらった。帰りには出島から7日後の4月10日で徳応寺に着いている。相当な健脚だということがわかる。行きは、徳応寺で宴会があったが、帰りは、「大切の御取扱いにつき、酒は一滴も飲まず」とある。帰りは、上下18人で来たと書いてあり、8名の名前が書いてあり、残り10名は名前判らずということが書いてある。その8名の中に、坂本龍馬の名前が出てくる。前のページに勝海舟(麟太郎)、そして坂本龍馬が次のページに書いてあり、並んで書いてある記述は他にはないといわれているとのこと。

下関戦争(1864年8月)

勝海舟が2か月の猶予をもらったが、幕府は何もしなかったため、4か月後(8月初め)に、4国(アメリカ・イギリス・フランス・オランダ)は下関に攻撃に行く。出島から2週間ほどかけて、佐賀関の沖を通っていっている。

その時の様子が書かれた絵図と文言がある。「8月1日丑の刻(午前2時頃)異国船3艘高島(佐賀関と佐田岬の間の島)先通行 姫島(国東半島の島、より下関に近づく)に向かう」と書いてあり、4国艦隊が、姫島に集結していることがわかる。8月2日5艘、4つ時3艘と次々と通り、16発の空砲を撃っていると書いてある。生々しい事実が記録されている。

史実では、下関戦争は、8月5日~7日にかけて戦いがあったとある。日誌には、「8月14日3艘 高島の海驢婆(あしかばえ)にてパンをもらう」とある。龍潭和尚は、おそらく、漁師の船で高島に行き、そこでスケッチしていたのではないか。パンをもらったのは、水や燃料(石炭)などの補給を漁師たちがして、そのお礼にパンをもらったのではないかと住職は推測する。

ドナティ彗星

「日本人物誌」の中には、その時代の特筆事項も書いていて、安政5年(1858)8月上旬に、ほうき星(彗星)が来たという文言とともに、絵が描いてある。インターネットで調べると、「ドナティ彗星」が来ていることがわかる。大変興味深い内容だ。

徳応寺から速吸日女神社までの町並み散策

関会所・お茶屋跡

徳応寺を後にして、早吸日女神社に向かう途中、細川藩のお殿様が泊まったり、休憩したお茶屋や政治ができる場所としての関会所の看板があり、当時の図面を見て説明していただく。

番所跡

番所跡の看板があり、海上交通の要だった佐賀関は、警察や防衛などの拠点として、肥後藩内の中では番所のランクは3本指に入るほど重要だったそうだ。

早吸日女(はやすいひめ)神社社家(小野住宅)

1760年代に宮司宅として建てられた家で、現在大分県指定重要有形文化財に指定されている。

速吸日女神社での説明

早吸日女神社

神社の成り立ち(創建)は、古事記や日本書紀に書かれていて、紀元前667年に、神武天皇が宮崎から奈良へ行く途中、急に船が動かなくなったが、大蛸が立派な剣を持っていて、それをもらい受け、船を動かすことができ、奈良に行くことができたという話しがある。701年(大宝元年)に、その剣をご神体として奉納し、今の場所に移った。その後、1600年に佐賀関合戦があり、神社は全焼したが、1602年に加藤清正が再建した。

石鳥居

石鳥居は、肥後藩初代藩主細川忠利公が1640年に寄贈したもので、伊豆大島の花崗岩が使われていて、大分市指定有形文化財に指定されている。

総門

総門にあった仁王像は、明治元年の神仏分離に伴い、現在は鶴崎の法心寺に移設され、代わりに、右大臣・左大臣が飾られている。

神楽殿

加藤清正が1604年建て、1650年に肥後藩3代藩主細川綱利が改修していて、大分市指定有形文化財に指定されている。

拝殿

大分県豊後地方独特の瓦の様式で、青海波唐破風の屋根になっている。(写真参照)

また、屋根の左右に浦島太郎と竜宮城があること、一番上には亀があるので、竜宮城伝説もあるそうだ。

蛸絶ち祈願

拝殿の中に入ると、蛸絶ち祈願のお札がたくさん貼られている。これは、蛸が神様になっていて、「願いを叶えてください」と言い、蛸を食べないでご祈願することで願いが叶うそうだ。天井絵もすごいが、残念ながら風化がひどくなっている。

本殿

大分県指定有形文化財になっていて、拝殿の奥には本殿があり、本殿の屋根の上にのびた交差した木(千木)の形が珍しいとのこと

御神水

早吸日女神社がなぜこの場所に建てられたかというと、海に近いため、海水にしかこの辺りは出ないが、本殿の裏からきれいな湧き水が出たからだといわれている。

さがのせきボランティアガイド協会

1864年、勝海舟、坂本龍馬が佐賀関を訪れたときの様子を聞いたり、当時の町並みを散策しながら巡ります。

所在地
〒879-2201 大分県大分市佐賀関966-5 佐賀関まちづくり協議会内

ツアープラン情報

ツアー名
佐賀関町並み散策
料金
1~2名の場合 お一人 1,000円
3名以上の場合 お一人 300円
開催日時
9:00〜17:00
ツアー時間
2時間程度
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
さがのせきボランティアガイド協会
定休日
日曜
営業時間
10:00〜17:00
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