西南戦争最後の激戦地 城山で西郷を偲ぶ

西南戦争の最後の戦場となった城山周辺を歩きながら西郷隆盛の思いや人柄を偲ぶコースです。

西南戦争の概要

西郷軍の先鋒隊が鹿児島を出たのが、2月15日で50年ぶりの大雪だった。西郷さんは、2月17日に人吉経由の陸路で熊本に向かった。

2月22日から、熊本城総攻撃が始まったが、大砲の能力不足で熊本城は落ちなかった。犬養毅が早稲田大学学生の時、郵便報知新聞の従軍記者として戦いの様子を、連載記事として書いていたものが残っている。その中で、西郷軍の三大脅威を指摘している。

  1. 雨‥西郷軍が主に使っていたエンフィールド銃は、弾が先込めだったため、雨天には使いづらい
  2. 赤帽‥西郷さんが作った精鋭部隊の近衛兵は質・装備が優秀
  3. 大砲‥官軍の激しい大砲攻撃

その後、官軍本拠地の熊本城に食糧などを補充させないようにするため、福岡方面から熊本城に向かう一本道の田原坂を抑えるかどうかがとても重要だった。そのため田原坂の戦いは壮絶なものとなったが、最終的に物量の差で押されてしまい、西郷軍は負けてしまう。両軍合わせて4千人が亡くなっていることから、壮絶さがわかる。「かちあい弾」という弾と弾が空中でぶつかって出来た玉のことをいうが、この田原坂で多くのかちあい弾が見つかっている。

その後敗走しながら南下し、延岡で軍解散を命じることになった。

ドーン広場

城山の駐車場から上山城の二之丸に上がってくると、「ドーン広場」の看板がある。明治時代、城山の麓に市役所があり、昼前になると職員が城山に上ってきて、広場に大砲が置いてあり、12時に空砲を撃ったことから名づけられた。

看板の後ろにはクスの木があり、クスの木はは県木であり、市木でもあるそうだ。鹿児島の街路樹で一番多く、昔クスの木から採れる樟脳(しょうのう)を、オランダや中国に輸出していた。

西郷軍の本営跡

西郷軍は、総勢3万人で、うち私学校徒1万3千人だった。一方政府軍は6万で、人の補充も可能だった。最後、城山に戻ってきたのは、290~370人と言われていて、200名が亡くなり、60~70人が降伏したそうだ。

本営跡の碑が建っている場所は、上山城という山城の二之丸で、本丸は城山ホテル鹿児島になる。全国に21,500の山城があるうち、鹿児島は841あり、平均の倍あったが、薩摩では島津家と土着の武士との戦いが多かったためだそうだ。

西郷軍は最後城山では、官軍に取り囲まれていたので、本営は、場所を変えながら4回も転々と移動していた。

余談として、西郷隆盛と大久保利通とも身長は178㎝あったそうで、西郷隆盛の血液型はB型、大久保利通はO型だったそうだ。

城山展望台

島津家は関ケ原の戦いで負けたので、いつ徳川幕府から攻められるかわからない状況だった。城山の麓に城を作ったが、住まいとして届け、戦いがあればいつでも山城に詰めることができるようにしてあった。実情に合わせ、江戸中期頃から麓を城としたそうだ。

山城として利用するためには、見通しをよくしておく必要があり、木など高い物は伐採してあった。その必要が無くなったことで、クスの木を植えたので、城山にあるクスノキの樹齢は、大きいもので400~500年と言われている。

城山は標高107mあり、火山灰が積もって出来た。城山全体が、昭和6年に国の天然記念物に指定されたので、現在は木1本切ることができないそうだ。

目の前に拡がる海は錦江湾で、南北80km・東西20kmあり、東京湾とほぼ同じ広さだ。違いは、東京湾は浅く、一番深い所で70m・平均17mの深さで、錦江湾は、一番深い所で237m・平均117mある。錦江湾奥は2万9千年前に噴火した姶良カルデラの跡で、鹿児島には50~100mのシラス台地が広がり、畑が多い。桜島は、2万6千年前にできた複合火山で、周囲52kmある。

鹿児島市に古い建物がない理由が3つある。

  1. 江戸時代末期に起きた薩英戦争で、元の城下町(上町(かんまち))がイギリスのアームストロング砲により焼けたため
  2. 西南戦争のとき、城下の9800戸の建物が焼かれたため(官軍が焼き払い、2400戸の建物は打ち壊された)
  3. その後復興したが、太平洋戦争で昭和20年3月~7月の間に、8回空襲にあい、鹿児島市街地の9割が焼けたため(沖縄の次の上陸予定地が南九州で、その拠点の鹿児島が叩かれた。約3300名が亡くなった)

昭和天皇行幸碑

昭和天皇が昭和12年に行幸されたことを記念した碑がある。他にも、昭和天皇が皇太子時代に植樹されたイチョウの木、良子皇太子妃(香淳皇后)が植樹されたイチョウの木、そして大正天皇が皇太子時代植樹されたクスの木がある。イチョウの木は別名、公孫樹(こうそんじゅ)といい、孫の時代に実を付けるところから、子孫繁栄を祈って植樹された。

城山展望台~西郷洞窟

知識豊富なガイドさんの話しを聞きながら、山を下っていく。

西郷隆盛は、18才年上の島津斉彬のことを太陽のような人だと言っている。一方、10才年上の島津久光は、「西郷がジゴロと自分のことを言った」と側近が日記に書いている。

西南戦争のときに西郷隆盛が通ったであろう道幅は、約2m(1間)で、上に登っていくと(矢印方向)夏蔭城(山城)がある。

西南戦争の背景

西南戦争の原因の一つと言われている西郷隆盛が唱えた征韓論について、鹿児島では遣韓論だったという説を唱えている方が多い。

明治新政府は、中絶していた国交を回復しようとした。しかし、当時朝鮮は排外鎖国政策をとり、国書を受け取らとらず頑なな態度を取り続けたような中で、征韓論が高まってきた。その状況の中で、西郷隆盛が朝鮮を説得する全権大使になることを主張して、派遣が決定するが、岩倉具視や大久保利通が外遊していたため、帰国後に正式決定することになった。

しかし大久保利通たちは、帰国後内治優先を理由に反対し、謀略をめぐらして西郷派遣の決定事項を覆した。そのため、西郷隆盛は辞表を出し、鹿児島に帰ってしまった。600人ほどの同郷の兵士・役人・警察官もあとを追って帰郷した。

その後廃刀令や秩禄処分(士族の給料カット)が明治9年に発令され、士族の反発が起きる。当時全国に士族が200万人いたうちの1割の20万人の士族が鹿児島にいた。不満の度合いが大きかった。明治9年に萩の乱、秋月の乱、神風連の乱などが起き、不穏な状況の中、明治10年1月29日に、陸軍省草牟田弾薬庫から政府が深夜弾薬・火薬をこっそり運び出したことに、私学校徒が怒り、1月30日~2月2日かけて草牟田・磯の弾薬庫を襲った。

また、警察制度を作った鹿児島出身の川路利良が中心になって不穏な状況打破のため、23名を鹿児島に派遣したが、23名のうちの一人中原尚雄が自分の任務は、西郷隆盛暗殺だと言った。これが大きなきっかけになり、西南戦争が起こってしまった。挙兵の名分は「尋問の筋あり」。

西郷洞窟跡

西郷隆盛がいたとされる洞窟の大きさは、間口3m・奥行き4mで、全部で10か所の洞窟が掘られ、西郷軍の幹部は分かれて入っていた。

江戸時代は、一般人の城山への立入り禁止にしていたので、武家屋敷を配置し、取締りをおこなっていた。その武家屋敷の裏手に洞窟があり、シラス土壌で掘りやすかったとはいえ、急ごしらえで掘ったため、浅かった。

9月19日~24日まで5日間過ごし、9月24日に総攻撃がおこなわれた。

西郷洞窟の看板の一角には、勝海舟が西南戦争後に詠んだ和歌がある。

「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな」

敬天愛人(トンネル)

西郷隆盛の座右の銘は、「敬天愛人」(天を敬い、人を愛す)で、鉄道が昭和2年に開通したときに、トンネルの入り口に掲げられた。トンネルの逆側には、大久保利通の座右の銘「為政清明」(政治をするのに、やましいことがあってはいけない)が掲げられている。

西郷隆盛の号(呼び名)は南洲といい、大久保利通の号は甲東(こうとう)と言うそうだ。

西郷隆盛終焉の地

9月24日午前4時から総攻撃が始まることは、前もって西郷軍に伝えられていた。23日の夜の最後の晩餐の時、西郷さんが好きだった花火が上がると同時に、海軍の軍楽隊が惜別の曲が演奏された。

24日洞窟を出た西郷隆盛は、四方八方から銃弾が飛ぶ中、銃弾にあたってしまう。そしてついに、「もうここらでよか」といい、皇居を向いて、別府晋介が介錯し、首が落とされた。後の文書に「島津応吉久能邸門前にて死なん」とあり、それを現在の地図を当て当てていくと上の写真の場所となる。「終焉の地」の碑は、そこから100mほど下ったところにある。

西郷隆盛の首級(しゅきゅう)を隠したが、一斉捜索により発見された。その隠した場所が、上の写真と碑のある中間で、武家屋敷の一角だそうだ。(次の写真あたり)

南洲墓地には、薩軍2023名が葬られていて、墓石755あり、亡くなった年代は、10代15%・20~30代79%・40代6%とのこと。

石垣

鹿児島城築城は17世紀初頭で、同時期にできた石垣が右の写真。(上2段は明治時代以降で、下の石垣と色が違うことがわかる)布積みで造られていて、石の技術は昔から高かった。火山でできた溶結凝灰岩が豊富にあり、石を使った建造物の宝庫だったことに起因する。

私学校跡

西郷隆盛が鹿児島に戻った後の明治7年に、私学校は設立された。城の厩(うまや)跡に作られ、西南戦争後は県立病院となった。

現在県の史跡になっていて、石垣には生々しい弾痕跡があり、弾痕数を数えた人がいて、3739発あるそうだ。

城のお堀越しに見る御楼門(堀にはハスの花が咲く)

北東方角の城壁は、「隅落とし」と言って、角が切ってあり、鬼門除けになっている

御楼門

薩摩藩は77万石だが、籾高での計算になる。他藩は玄米高なので、薩摩藩を玄米高にすると38万石くらいしかないそうだ。武士は住民の27%いて、他藩の3倍ほどと非常に多く、多くの藩士が半農半士での生活だった。薩摩藩を113のブロックに分けた。外城制度を作り、鹿児島全体で守る体制を敷いた。

城の大きさは熊本城の1/7だが、南北に川・さらに三つの濠があり、戦時には城山に籠ることができる。城山を入れると85haあり、全体で考えると、強固な城と言える。

薩摩藩が明治維新で活躍できたのは、財政改革に成功して、近代的武器を手に入れたことと訓練された多数の兵力があったことによる。

御楼門は、明治6年に火事で焼けてしまい、2020年3月にようやく復元された。高さ20m・幅20m・奥行き7mあり、ケヤキ・松を中心にした国産木が使用されている。

鶴丸城

江戸時代中期頃から城のことを鶴丸城と呼ばれ、城山は鶴丸山と言われていた。

銅像

西郷隆盛没後50年祭記念事業として、銅像建設の話しが出て、東郷平八郎が総裁になり、昭和9年に東郷平八郎は亡くなったが、昭和12年に完成した。東郷平八郎がイギリスに留学する時に、西郷さんが口をきいてくれた恩があった。8年間イギリスに留学していたため、西南戦争の時には、日本にいなかった。

銅像の作者は、鹿児島出身の安藤照(てる)で、東京渋谷の戦前の忠犬ハチ公の銅像を作った人だ。(戦争で供出)

陸軍大将の軍服姿で、左足を一歩前に出していて、動きがあり、気力充実を表している。台座として築山が作ってあり、築山7.27m・その上の石1.2m・銅像5.257mで、全高14.2mになる。

かごしまボランティアガイドの会

鹿児島市の観光名所をボランティアガイドと一緒に巡る「鹿児島ぶらりまち歩き」。各コースごとにまつわる歴史やエピソードを聞くことで、ガイドブックだけでは見えてこない観光名所の生きたストーリーを感じることができます。

団体窓口
鹿児島まち歩き観光ステーション
所在地
〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町2-30 二之丸ビル1階 鹿児島まち歩き観光ステーション内
電話番号
099-208-4701

ツアープラン情報

ツアー名
西南戦争最後の激戦地 城山で西郷を偲ぶ
料金
大人(高校生以上)
2名以上での参加の場合 1名当たり500円
1名での参加の場合 1,000円
小・中学生 1名100円
未就学生 無料
開催日時
9:00〜17:30
ツアー時間
2時間
予約受付
・電話申込み
 前日の17:00まで
・ホームページからの申し込み
 前々日まで
お問い合わせ
鹿児島まち歩き観光ステーション
TEL
099-208-4701
定休日
12/29〜1/3
営業時間
9:00〜17:30
(ただし、3/20~8/31は19:00まで)
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