多賀城・史跡コース

多賀城政庁跡・多賀城碑等を巡りつつ、大伴家持や坂上田村麻呂らが活躍した古代の歴史に思いを寄せます。

外郭南門(がいかくなんもん)

外郭南門は多賀城正面にあった正門で、政庁から南300mのところにあった。2階建てのように見えるが、実際は屋根が二重になっているだけで、1階と2階の間は(床・天井がない)吹き抜けになっている。政庁Ⅱ期(762~780年)時代の南門を再現していて、この時期の門は蝦夷(えみし)対策として陸奥国府の威厳を示している。蝦夷とは、律令国家の支配が少しずつ北上していく中で、律令国家に属さない今でいう奥州水沢あたりに住んでいた人たちのことを言う。硬軟織り交ぜた対応で、戦争を仕掛けたり、多賀城に呼び接待を繰り返した。2024年の多賀城創建1300年に合わせ、公開に向けて復元工事中になる。

築地塀(ついじべい)

城の周囲を木の枠を組んで土と粘土質の土を交互に積み上げて塀にする築地塀で取り囲んでいた。

多賀城碑(国指定重要文化財)

天平宝字6(762)年12月1日に、高さ196㎝幅92㎝重さ約3トンある石碑が建てられた。当時陸奥鎮守将軍だった藤原朝鞨が建立したものだが、藤原仲麻呂の子(4男)で、764年に仲麻呂が天皇に逆らい反乱を企てたためともに殺された。建物や石碑をどかした最近の発掘調査では、石碑の前のほうに穴が掘ってあり、倒した痕跡があった。謀反を企てた人を褒め称える石碑だったので、倒されたのではないか?と言われている。1650年頃、倒れていた石碑を村人に発見され、元に戻した。掘り起こされた記述は、当時の新井白石の書物に書かれている。

石碑には、①多賀城が都から1500里離れているという距離のこと②神亀元(724)年に大野東人(あずまびと)が多賀城を造り、762年に藤原朝獦(あさかり)が多賀城を修復したことの二つのことが書かれている。

通常1300年近く経つと文字が風化して読みづらくなるが、倒れていたため鮮明な状態を保っている。石碑は明治時代に入り、石碑の根拠・文字の彫り方・書体・内容から偽物だと言われていたが、発掘調査がおこなわれた結果本物だとなり、平成10年に国の重要文化財に指定された。この石碑に刻まれていることは、日本の歴史書には書かれていない。石碑によってこの事柄が初めて明らかになった。

平安時代終わり頃から歌に詠み込まれた歌枕の「壺碑(つぼのいしぶみ)」が多賀城碑だと見なされるようになり、松尾芭蕉が訪れている。没後100年の百回忌の法要の時、芭蕉が訪れた時の絵を親族の方が芭蕉の墓がある義仲寺に寄進している。この時の絵には石碑は囲われていなかった。その後、碑が苔むした状態だと知った水戸光圀が、伊達藩4代藩主(1660~1703)伊達綱村宛に、小屋を建て傷んでいるところは修復するように依頼した。そのことから石碑を囲っている建物は、江戸時代と考えられている。

石碑の中にある高城の位置を示す中に、靺鞨国(まっかつこく)3千里とある。これは渤海(ぼっかい)という朝鮮半島の北に位置する満州あたりにあった国になり、日本に使節団が訪れている。

政庁南大路

多賀城は、鎮守府としての軍事的な機能と国府としての行政を兼ねていた。

政庁に向かう通路の道幅は13mあり、初めて訪れた人(蝦夷)には圧倒的な雰囲気を感じさせる。一番広い時の道幅は、24m(平安時代)あった。

石組桝

通路の低いところに雨水がたまるため、通路の一角に穴を掘って石を詰めた桝が作られたことが、発掘調査で見つかっている。

柱跡

通路の途中には、柱跡のグレーの丸印と門跡の白いラインがある。政庁Ⅰ期(724年~762)時代の門跡になる。

城前官衙(じょうまえかんが)

通路横の高台に、政庁Ⅱ期(762~780年)の状況を再現している。約500人常駐の鎮守府(役所)が置かれていた。中央の広場を囲むように、柱を地面まで埋め込む掘立て柱式の建物が整然と並んでいた。

蝦夷へ攻めるときは全国から5~10万人集めて遠征軍を組んで戦った。

780年の蝦夷の反乱で、この時代の建物は全焼したと考えられている。

律令国家の支配範囲

多賀城を拠点に、支配範囲を北へ広げていった。

政庁の推移(Ⅰ期~Ⅳ期)

Ⅰ期(724年~)大野東人が多賀城を創建

Ⅱ期(762年~)藤原朝獦の多賀城大改修 建築様式が掘立て柱方式から礎石式に変更 

Ⅲ期(780年~)蝦夷族長の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱により全焼のため、再建

Ⅳ期(869年~)巨大地震が起きたたため、再建。その時、津波も起きている。多賀城がいつまで機能したかは不明。

政庁復元模型

政庁前には、当時の模型がある。人間の2~3倍の高さだった築地塀で囲われていた。

政庁正殿跡

政庁正殿は、蝦夷の人たちの接待用として活用された。食事や献上品などの交換をおこなわれていた。蝦夷の人たちと仲良くすることが、長官の仕事の一つとなっていた。発掘調査でそれを示すいろいろなものが出てきている。

奈良時代に建てられた建物の礎石が東日本大震災でひびが入ったり、壊れたため、礎石の修復を兼ねて発掘調査がおこなわれた。

大きな穴を掘って大きめの石の中に小さい石を置き、踏み固めて安定させた上に礎石を置く。今でいうと、基礎コンクリート打ちと同じ技法だ。礎石の周りには小さな柱の跡があった。これは足場の跡になる。高い建物を建てる際、すでに足場が組まれていたことは驚きがある。高い技術を持った人たちが携わっていた可能性が高い。

坂上田村麻呂が征夷大将軍として801年蝦夷軍を撃破し、その時の大将阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)他を都に連れて行き、命を救うよう嘆願したが認められず、殺された。坂上田村麻呂ゆかりの寺である京都の清水寺の一角には、アテルイとモレの石碑が建てられていて、今でも花が手向けられている。

松尾芭蕉句碑

多賀城碑近くには、「あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒」と書かれた昭和5年建立の松尾芭蕉の句碑がある。

画工加右衛門に仙台市内をあちこち案内してもらい、別れ際に芭蕉と曾良のものとして、草鞋を2足プレゼントしてもらった。草履の緒が紺色に染めてあり、紺色はマムシ除け・厄除けになる。旅の無事を祈っている意味が込められていて、「なかなか風流がわかる人だな」という句になる。

史跡多賀城観光ボランティアガイドの会

多賀城は、奈良・平安時代に陸奥国の国府がおかれたところで、古代東北の政治・軍事の中心地としての役割を果たしていました。そして多賀城跡は、奈良の平城宮跡、九州の大宰府跡と並んで特別史跡になっています。 ガイドが特別史跡多賀城跡や重要文化財多賀城碑などを始めとする歴史的文化遺産について、わかりやすくご案内しますので、歴史を身近に感じていただくことができると思います。

団体窓口
多賀城市観光協会
所在地
〒985-0873 宮城県多賀城市中央2-7-1
電話番号
022-364-5901

ツアープラン情報

ツアー名
多賀城・史跡コース
料金
無料
(ただし、バスツアー1台3,000円、他は10人以上2,000円)
開催日時
8:30〜17:00
ツアー時間
90〜150分
(お客様の要望によります)
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
多賀城市観光協会
TEL
022-364-5901
定休日
年末年始・お盆休み
営業時間
8:30〜17:00
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