大村純忠とキリシタン史跡

日本初のキリシタン大名「大村純忠」により、この大村の地はキリスト教ととても縁の深い土地となりました。
徳川幕府のキリスト教禁止令(禁教令)から40年余を経たときに、突如として発覚した隠れキリシタンの存在に慌てた大村藩は、これまでにない厳しいキリシタン弾圧に乗り出しました。
大村市には、キリシタン弾圧の歴史を物語る史跡が沢山残り、キリシタン巡礼の地としても有名です。

鈴田牢跡

1563年に領主大村純忠はキリスト教に改宗し、日本初のキリシタン大名となり、領民(約6万人)がキリスト教に改宗した。宣教師を通じてヨーロッパで有名になった大村純忠の肖像画が、ドイツで出版された本の挿絵に載った。

1614年に全国禁教令が発令されたため、1617年から5年の間に鈴田牢に35人の外国人の宣教師や信者が閉じ込められ、多い時は同時に33人が入っていた。鈴田牢は、大村純忠の次男(大村家の重臣)の屋敷があった場所に、長崎奉行の指示により藁ぶきの家で建てられたもので、牢屋の広さは5.3m×3.5m、11~12畳程度の広さだ。現地には、その広さが復元されている。

1622年の「長崎の元和の大殉教」で24名が処刑され、他も処刑もしくは牢死した。殉教した中に、スピノラというイタリアの宣教師がいて、彼が牢屋に閉じ込められていた時の記録を残したことにより、その当時の状況がわかった。

大村市歴史資料館(内写真撮影禁止)

最近できた長崎県立図書館内に大村市歴史資料館があり、大村の歴史の資料が展示されている。図書館の外には、天正遣欧少年使節が戻ってきた(1590年)ことを記念にして作られたからくり時計があり、ポルトガルリスボンにあるベレンの塔を模してつくられている。

三城城跡

大村純忠がキリシタンに改宗した翌年の1564年に築城され、土塁や空堀で作られた山城で、曲輪は3つあり、それぞれに建物があって三つの城があったように見えたところから三城城と名付けられた。標高30m以上ある高台に造られている。

大村純忠終焉の居館跡

大村純忠が領主を退いた後の晩年(2年間)を過ごした館で、坂口館と呼ばれていた。

大村純忠がおこなった業績の中で一番有名なことは、天正遣欧少年使節団(4名)の派遣で、大友宗麟の名代として伊東マンショ、有馬晴信・大村純忠の名代として千々石ミゲルなどが参加した。千々石ミゲルは大村純忠の甥にあたる。

訪れたヨーロッパでは歓迎され、大きなブームが起きたそうだ。8年後に帰国し、活版印刷機・西洋楽器など、西洋の高い技術や文明・知識を日本に持ち帰った。

天正遺欧少年使節団は、布教状況を査察する役目だったイエズス会の巡察師ヴァリアーノが、日本の宣教状況をヨーロッパで見せるためとヨーロッパの素晴らしさを日本人自身に伝えるために企画されたことだった。

1582年2月に出発し、織田信長はその年の6月に亡くなったため、使節団が帰ってきた1590年には環境がガラッと変わっていた。

屋敷の庭園があったところには、山が迫っていて当時の石積みがそのままあり、当時の雰囲気が残っている。

放虎原(ほうこばる)殉教地(処刑場跡)

島原の乱(1637年)の20年後の1657年に、大村藩郡村を中心に603名の潜伏キリシタンが見つかり、郡崩れといわれる事件が起きた。406名が打ち首になったうち、131名がここ放虎原(ほうこばる)で処刑された。

日本二百五福者殉教顕彰碑

福者とは、カトリックで信者の模範となる人で、バチカンで認められた人のことをいう。その上には聖人があり、豊臣秀吉により処刑された日本二十六聖人が有名である。

顕彰碑のレリーフには、205福者のうちの10人程度が描かれている。仙台藩の遣欧使節を案内したソテロが、日本に戻ってきたら禁教令になっていたため、この場所で処刑されている。また鈴田牢に閉じ込められ、牢内の状況を書き残したスピノラ(長崎西坂で処刑)や1617年に処刑されたレオン田中などが、レリーフになっている。

日本二百五福者殉教顕彰碑の裏側には、大村潜伏キリスト教徒殉教顕彰碑があり、今から処刑される人をお迎えに来た天使が描かれていて、亡くなった方々の冥福を祈るために造られたレリーフになっている。

獄門所跡

獄門所跡は、郡崩れで処刑された後、人通りがあり目立つ長崎街道沿いに、20日間首を晒された。

首塚跡

晒された後、生き返るというキリストの教えがあるため、首と胴を別々に埋められた。首塚は首が埋められた場所で、胴塚は首塚から800m離れたところにある。

妻子別れの石

妻子別れの石は、身内の者と最後の別れを惜しみ、水盆を交わした所がいわれ、郡崩れにより捕らえられた牢屋から処刑場に向かう道の途中あった。

写真手前の石はその当時からある石で、涙に濡れた涙石と言われている。

大村純忠の長女(伊奈姫)の墓

妻子別れの石から道を挟んだところにある墓地には、1639年に亡くなった大村純忠の長女の墓がある。死ぬまでキリシタン教徒だったそうで、1637年におきた島原の乱を乗り越えて亡くなっている。

本経寺

大村藩の日蓮宗の総本山で、もともと1万坪の敷地があった。正面に見える本堂は、1700年代終わりに建てられたものだそうだ。

本教寺には、大村家墓所があり、国指定史跡となっている。2万7千石の藩主の墓としては異例の大きさがあり、キリスト教はやめたと対外的に示す目的があったのではないかと言われている。

次の写真の五輪塔は、墓所の中で一番高く6.95mあり、7代藩主純富(すみひさ)の墓だ。

その次の写真は、大村藩初代藩主大村喜前(よしあき)の墓が納められている石霊屋(いしたまや)。1800年代に作られたものだと言われている。

3代藩主大村純信の家臣の小佐々市右衛門前親の墓の横に、愛犬華丸の墓が建てられている。純信が亡くなったときに、小佐々市右衛門が殉死し、火葬された時に華丸が火の中に飛び込んだという記録が残っている。

殿様の墓の中に、犬の墓があるのは珍しい。

4代藩主純長の時に郡崩れがあり、大村藩はキリシタンとは関係ないということを示すために、本教寺の横を通る長崎街道から見えるように高く建てられたのではないかと言われている。その理由として、3代藩主の墓から高く建てられている。(4代藩主が建てた)

おおむら歴史観光ボランティアガイドの会

おおむら歴史観光ボランティアガイドの会は「花と歴史と技術のまち大村」の歴史文化や史跡を分かり易く、楽しくご案内します。大村駅や長崎空港・長崎道大村ICに降り立ったら是非、立ち寄ってみてください。新たな発見や感動をお届けすることをお約束します。お待ちしております!

所在地
〒856-0834 長崎県大村市玖島1丁目45番地3 大村市観光コンベンション協会
電話番号
0957-52-3605

ツアープラン情報

ツアー名
大村純忠とキリシタン史跡
料金
【徒歩による案内の場合】
・ガイド1人に対し2時間まで1,000円
・それ以降1時間毎に500円
【バスに同乗して案内する場合】
・案内時間2時間までバス1台につき3,000円
・案内時間3時間までバス1台につき4,000円
※3時間を超える場合及び自家用車利用の場合はご相談ください。
※車両の長さをお知らせください。
開催日時
3月~11月
9:00~16:30
12月~2月
9:30~16:00
ツアー時間
90分〜120分
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
おおむら歴史観光ボランティアガイドの会
TEL
0957-52-3605
定休日
水曜日
営業時間
9:00〜17:00
このツアーに申し込む