ガイドと巡る名護屋城跡「城内ガイドツアー」

日本唯一の外征の城・名護屋城。豊臣秀吉が大陸進出を図った文禄慶長の役に、国内拠点として築いた巨大な城です。当時大坂城につぐ規模を誇り、周辺には全国から集まった戦国大名の陣屋が130以上も建てられ人口20万人を超える城下町が出現しました。国内でこれほど名だたる武将が一堂に会した城・陣跡はありません。420年前の石垣がそのまま残る「幻の巨城」をお楽しみください。

概略説明

「幸福を呼ぶ福姫です。」のキャッチの挨拶からガイドが始まったが、ずっとニコニコしながら話され、本当に楽しい時間となりました。 

天正18年(1590)に、小田原城の北条氏を攻め落とし、全国制覇を果たした豊臣秀吉は、次に中国・フィリッピン・タイ・インドを支配下に置きたいという思いがあり、中国大陸に行くには海を渡る距離が短い朝鮮半島を使って行くのがベストということで、朝鮮半島に近い対馬藩主の宗義智(そうよしとし)を通じて、朝鮮王朝に対して、明を攻めるので、服属国になって、先導役になってほしいと依頼するも、すでに明の服属国になっていたので断られた。そこで、朝鮮出兵のために、名護屋にあった山城を改修して城を築くことになり、黒田官兵衛が設計し、現場責任者として、黒田長政・小西行長・加藤清正の3人を中心に九州西国の大名で築城をおこなったそうだ。甲子園球場が4つ入るほどの敷地で17haあり、城を通常作るのに5~7年かかるのが普通の時代に、1日3万人動員し、半年間で作られたとのこと。石垣を築くのもコーナーごとに各藩に分担させ、競わせたそうだが、1591年秋の築城から豊臣秀吉が亡くなった1598年8月の間の7年で幕を閉じた。1602年に取り壊され、柱や瓦は再利用し、唐津城や平戸城の築城の時に使われた。昭和30年に、国特別史跡指定され、建物の復元などは簡単におこなえない状況にあるとのこと。名護屋という地名は、元々は名古屋という文字を使っていた時代もあったが、愛知県の名古屋と区別するために、大正11年に名護屋に変更したそうだ。

大手口から登城坂を歩く

概略説明を受けた広場は、大手口といい、正面玄関のような役割だそうで、大手口から唐津市内の唐津市役所(唐津城)近くにある浄泰寺山門の前の名護屋口までの約4里(16km弱)の道を太閤道というそうだ。その大手口から緩やかな坂道を歩いていると、両側に石垣がある。名護屋城で一番の価値があるものが石垣で、当時のものがこれだけ残っているは、名護屋城だけとのこと。石は、地元周辺2~3kmにある玄武岩を使用しているそうだが、どの藩がどの石垣を造ったかの記録は残念ながら残っていない。石垣の中に大きい石を見つけると、権力を示すためのもので、中には11トンもある石もあるそうだ。石の間に隙間があり無造作に積んでいるようで意外としっかりしている野面積み、石の表面が揃っていて見た目もきれいな打ち込み接ぎ(はぎ)の石垣、そしてその当時としては珍しいたて石積みなど、藩ごとに石垣の積み方が違うことがわかる。映画の「乱」の撮影が名護屋城を使って、おこなわれたそうだ。

東出丸

坂を上りきると、海が望める見晴らしのいいスペースに出てくる。東出丸といって、大手口や三の丸の警護をする侍詰所があったと推測されている。豊臣秀吉の名護屋城で滞在した期間は、合計1年1か月で、最初は1592年春に来て、本丸で生活をしたが、7月に大政所が逝去したので、葬儀のため、一旦大阪に帰り、11月に戻ってくる。本丸は風をさえぎるものがなく、日本海に面した冬は風が強いため、生活が困難になり、本丸の北東側に山里丸という横に長い豊臣秀吉の居住エリアが作られた。寝室のある上山里丸には、茶室や月見櫓もあり、下山里丸には能舞台を設けた。能を10番も覚えたそうで、北政所に便りして、能の道具を送ってもらったという話しもある。コスプレ大会が開かれ、豊臣秀吉は瓜を売り、徳川家康はかごやざるを売るかご売り(あじか売り)をして、伊達政宗が茶々入れていたという大河ドラマ「真田丸」の中でのシーンは、実は名護屋城での話しだとのこと。

各大名は名護屋城の周りに陣屋を構えていたが、高い山がなく、城ができる前(1000人)とできたあと(20~30万人)では人口の差が大きかったため、水不足は深刻だったそうだ。入り江を挟んだ呼子側に徳川家康と前田利家は陣屋を構えていたが、徳川家康の陣屋近くに真水があったため、それを聞きつけた前田利家の家来が盗みに来たので、水争いが起きたそうだ。伊達政宗が仲裁に入り、争いは収まったが、もめ事が再度起きないようにと、豊臣秀吉の山里丸に近くに双方が移ったとのこと。ただ、家康の脅威を感じていた秀吉は、家康の陣屋は二つに分け、部隊の多くは今まであった海を隔てた遠い所に置いて、リスクヘッジをしていたそうだ。

三の丸

東出丸を超えると、すぐ現れてくるのが三の丸門跡だ。道は狭くなっていて、検問としての価値は充分にありそうだ。三の丸には、クスノキが生い茂っているが、元々は空き地だったところに鳥が種を運び、大きくなり、300年くらい経っているのではないかとのこと。クスノキは佐賀の県木・花にも指定されているそうだ。

昭和30年の少し前に、天守閣の復元計画があったが、国の特別史跡の指定になったため、お蔵入りになった。そして、昭和43年に、東京神田で、名護屋城と城下町を対岸の加部島から描いた絵図が見つかり、名護屋城があった頃に狩野光信(狩野永徳の息子)が描いたものだった。これをもとに、まわりの陣屋の発掘調査が昭和50年代に一部おこなわれ、昭和60年代に入り、本城の発掘調査が始まっている。

1637年に島原・天草一揆が起き、老中松平伊豆守信綱が総大将として乱を沈め、原城から江戸に帰る途中、名護屋城に寄った時、石垣が立派に残っていたのを見て、反乱がおきたときの城になる可能性があると考えたため、当時の唐津藩主寺沢堅高(かたたか)に命じて、石垣の破壊をさせたそうだ。強度上石垣の角が重要なので、角を壊したとのこと。

本丸

本丸大手門

伊達政宗は、戦が終わったら大手門が欲しいと豊臣秀吉に言い、壊さずに持っていくことができればいいと言ったという逸話があり、仙台青葉城の大手門が、名護屋城から移築されたという話しもあるそうだ。。 

本丸

本丸の敷地は、東西に135m・南北に120mの広さがあり、芝生の部分に建物があったとされているそうで、廊下続きに13部屋、一番広い部屋が対面処で、畳100畳以上あったそうだ。玉石部分が屋外になっているが、本物は地下に埋まっているとのこと。 

青木月斗(げっと)の句碑

「太閤が にらみし海の かすみかな」と、昭和8年(1933)に詠んだ句で、昭和15年(1940)に、門下生により、建立されたそうだ。この句碑を目当てに訪れる方も多いとのこと。

天守台

天守台のある所は、標高90m、天守閣は5層7階(地下穴倉含める)で天守台の高さが30mあるので、海越しに遠くまで見渡していたのではないかとのこと。朝鮮半島までは180kmあり、見ることはできないが、対馬諸島は年間数十日程度は見ることできるそうだ。天守閣の瓦は、本丸側から見ると普通の瓦だが、海側から見ると、金箔瓦を使っていたとのこと。ここにも、秀吉の朝鮮出兵に対する意気込みが感じられる。 

その他

天守閣があった所から、眼下を見るとお寺が見えるが、法光寺というお寺で、元々は太閤道沿いにあった。道沿いにお寺があると縁起が悪いということで、移転させられたそうだ。しかし、たくさんの米や2頭の馬などの償いの品をもらったり、秀吉自ら植えたという八重桜は今も花を咲かせているとのこと。

正面に見える馬渡島(まだらじま)は、佐賀県で一番大きい有人島で、島民の半分はキリスト教徒で鐘が鳴り響いているそうだ。その右に、ヒョウタンのような形をした島の松島があり、松島の右横は、加唐島(かからしま)は、500年代に朝鮮の百済時代の第25代武寧王(ぶねいおう)が生まれた島として知られているとのこと。

最後の話しとして、最初の文禄の役は、春に出兵したので、戦績が良かったが、二度目の慶長の役は、冬に出兵したので、海が荒れ、苦戦をしたそうだ。

肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会

日本唯一の外征の城・名護屋城。豊臣秀吉が大陸進出を図った文禄慶長の役に、国内拠点として築いた巨大な城です。当時大坂城につぐ規模を誇り、周辺には全国から集まった戦国大名の陣屋が130以上も建てられ人口20万人を超える城下町が出現しました。国内でこれほど名だたる武将が一堂に会した城・陣跡はありません。420年前の石垣がそのまま残る「幻の巨城」をお楽しみください。

所在地
〒847-0401 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1938-3 名護屋城跡観光案内所
電話番号
0955-82-5774

ツアープラン情報

ツアー名
ガイドと巡る名護屋城跡「城内ガイドツアー」
料金
1人200円(20人以上は、1人100円)
開催日時
9:00〜17:00
ツアー時間
40分
予約受付
5 日前まで
お問い合わせ
肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会
TEL
0955-82-5774
営業時間
9:00〜17:00
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