島原城と武家屋敷

島原にはたくさんの観光地がありますが、その歴史やドラマは見学をするだけでは伝わりにくい面があります。 町の当たり前にある石垣にもロマンが隠されていたりするのです。そんな時に力強い味方が島原観光ボランティアガイドです。豊富な専門知識で島原の魅力を伝える、まさしく『島原観光の達人』です。歴史・ジオパーク・湧水、ニーズや年齢、性別等に合わせて、観光コースを設定して、案内しますので、お気軽にお問い合わせください。

島原城

現在の天守閣は、昭和39年(1964)に復元されたもの。3つの櫓も、天守閣復原前後に復元されている。現在はないが、二の丸と本丸の間には、珍しい廊下橋があり、緊急時には橋を切り落として本丸に行くことができなくしたり、本丸には、防御のための桝形を多数配置していたりして、日本で最も進入しにくいお城といわれている。

館内(キリシタン資料館)

資料館の中に入ると、年代順にキリスト教が島原に入ってきてから、島原の乱までの展示がされている。

1563年に、キリスト教が入ってくるまでは、島原は仏教の聖地だったそうだ。高野山よりも1世紀はやく、奈良の大仏の建造責任者と言われる行基が、701年に開眼したとのこと。宿坊が、1000とか3000とか言われるほどあり、修行僧だけで、1000人ほどいて、島原半島全体が仏教の聖地だったが、キリスト教が入ってきてから、お寺がつぶされたとのこと。

雲仙のことを、むかしは温泉と書いて、(うんせん→うんぜん)と読んでいたが、昭和9年(1934)に、日本で最初に国立公園に指定されるときに、雲仙と名前を変更したそうだ。

キリシタン灯篭(織部燈籠)と言われ、正面から見ると、十字架の形をしている。古田織部(千利休の高弟)の設計といわれているそうだ。

1580年に、セミナリオという日本人聖職者養成用の初等科(小学校高学年から高校生(10~18才))の神学校ができた。1582~1590年に、4人の使節(うち、千々石ミゲルは島原半島出身)がヨーロッパに派遣され、活版印刷機を持ち帰り、 1590年に、島原半島で最初に活版印刷されたとのこと。1591年活版印刷機が、天草の河浦にわたり、1597年まで印刷されたものを天草本と言われ、イソップ物語・平家物語などが印刷されて、かなり有名とのこと。

下の写真のはさみは、隠れキリシタンのもので、刃が重なり合うところに、十字架を形どっている。右は魚拓の彫り物で、キリスト教のシンボルがもともと魚で、4世紀に入ってから、十字架をお祈りするようになったという話しを聞いた。また、キリシタン墓碑は、全国に約180基あり、そのうち130基が島原にあるそうだ。

島原の乱のあと、全ての人を寺の檀家にして、人別帳(名簿)を作り、島原では、毎年正月明けに絵踏みをさせていたそうだ。右のものは、キリシタンの人を見つけたら、賞金を出すという島原藩で使っていた立て札(制札)だ。

島原には、元庄屋屋敷の前に、制札というバス停が残っているそうだ。

島原の乱について

島原・天草一揆が起こり、一揆軍は島原城を攻めたが、城の守りが堅かったため、原城に立てこもる作戦を取ったそうだ。幕府の記録によると、原城に3万7千人が立てこもり、1人だけ生き残った(山田右衛門作)事になっているが、天草から参加した人数から算出すると、実際には2万7千人ではないかとのこと。宮本武蔵がこの戦に参戦し、石が左足に当たってけがをしたという有馬の殿様にあてた手紙が残っているので、事実とのこと。原城跡の近くにある八幡神社には、2m以上ある石碑があり、その拓本が資料館にあるが、漢文で書かれていて、その内容は、天草四郎が皆をたぶらかして、3万7千人が反乱を起こしたため、全部殺したと書いてあるそうだ。

島原城下の模型・地図コーナー

松倉重政公によって1624年築城の島原城は、7つの門があり、大手門・北門・桜門はいつも開いていて、あとの門は必要に応じて空けていたそうだ。大手門だけで1000坪あり、攻撃・防御など出丸の役割も持っていたとのこと。ほかにも、外郭に30以上の櫓が作ってあることや、本丸の石垣が屏風折れになっていて威厳があるとともに攻撃用になっていることなど、日本の中でも堅牢な城づくりになっている。その後、藩主が一度変わった後、九州の目付役として、信頼のある大名を配置するため、松平家(忠房)が島原藩藩主として島原城に入った。

兜・鎧展示コーナー

兜・鎧の動きやすくするため、身体に直接つけるものを、(当世)具足と言い、鉄砲戦になった戦国時代後期では、鉄砲の球の貫通を防ぐため、桶側胴(おけがわどう)という鉄板の具足を体に付けて、戦いをおこなったそうだ。

刀展示コーナー

島原城には、数十振りの刀の保有があるそうだ。刀を研ぐと、鞘や鎺(はばき)とかを作り直す必要があるため、半年ほど時間がかかり、費用も50万くらいかかるとのこと。島原城には、粟田口国綱作、本阿弥光温の折り紙が付いた神気という島原松平家の宝刀がある。刀の鑑定士としては、戦国時代活躍した本阿弥光徳が有名で、その孫の本阿弥光温の子供くらいまでは信ぴょう性が高く、いわゆる折り紙付きだとのこと。

解剖図展示コーナー

九州では、本物の解剖図を展示しているのはここだけではないかと思われるとのこと。シーボルトの弟子で、島原藩の藩医の賀来佐一郎が、1843・1844年の2回、原寸大で書いたものとのこと。

展望台

5層になっている展望台は、島原市の平地では、島原城が一番高い建物で、見学した日は天気が良く、遠く阿蘇の中岳の噴煙まで見えた。

北村西望記念館

昭和47年(1972)に復元された巽の櫓は、郷土出身で、長崎平和公園にある平和記念像を制作した北村西望氏の記念館として活用されている。1階には、その時に、立像と座像とどちらにするか検討した像があり、その奥には、だんだん大きくしていく過程の像が展示してある。型を作って、銅を流し込んで組み立てる彫塑という製造方法を用いているとのこと。

島原城の石垣

島原城を作る意図としては、キリシタン対策で作られた可能性が高い。江戸時代になってから、外様大名として城を作ったのは、島原を含めて2か所だけで、大変珍しい事だそうだ。石垣の中に、大きな石が散見できる。郭を90度曲げて、防御を強くする折れが、12ヶ所作られていて、ほかの城では、多い所で、9ヶ所.普通の城で6か所くらいだということから考えると、いかに多いかがわかる。

武家屋敷

松倉重政が島原城を作ったときは、武家が住む町は3筋だったが、1669年に松平家が藩主になったとき、6筋に増えて、筋には真ん中に必ず水路があった。現在は、一筋だけ残し、ほかの筋は生活に不便だということで、側溝に変えたそうだ。幕末には、江戸詰めの藩士が戻ってきたため、1筋増えたが、その水路はなかったとのこと。この水路は、飲み水として使っていて、右下の写真の一段下がった所は、水汲み場として利用されていて、2km先の熊野神社に水源があったそうだ。筆頭家老の屋敷は、約3000坪あったとのこと。

現存する武家屋敷

篠塚邸は約90坪で、この武家屋敷の一般的な敷地サイズで、当時は藁の屋根で、5年ごとに葺き替えていたそうだ。お城や有明海が東側にあるため、東側が当主の部屋として、座敷があり、観賞用の庭があった。西側には、畑や果樹があったとのこと。

山本邸

砲術の師範宅で、140坪程度ある少し大きめの敷地になっている。同じように、東側に座敷・庭がある。こちらの屋敷は、所有者の方から借りていて、管理や修理は市がおこなっているそうだ。

烏田邸

こちらの敷地も約90坪。公開している武家屋敷は3軒で、公開されていない武家屋敷には、現在子孫の方が住んでいる家もあるそうだ。「国の重要伝統的建造物保存地区」指定の価値は充分認められているが、いろいろな事情で未指定となっているようだ。

一般社団法人島原半島観光連盟

島原にはたくさんの観光地がありますが、その歴史やドラマは見学をするだけでは伝わりにくい面があります。 町の当たり前にある石垣にもロマンが隠されていたりするのです。そんな時に力強い味方が島原観光ボランティアガイドです。豊富な専門知識で島原の魅力を伝える、まさしく『島原観光の達人』です。歴史・ジオパーク・湧水、ニーズや年齢、性別等に合わせて、観光コースを設定して、案内しますので、お気軽にお問い合わせください。

所在地
〒855-0879 長崎県島原市平成町1-1 雲仙岳災害記念館内
電話番号
0957-62-0655

ツアープラン情報

ツアー名
島原城と武家屋敷
料金
4,000円〜
開催日時
9:00〜17:00
ツアー時間
約90分
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
一般社団法人島原半島観光連盟
TEL
0957-62-0655
営業時間
9:00〜17:00
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