眼鏡橋から中通りへ

長崎の観光地といえば、グラバー園や眼鏡橋、大浦天主堂や平和公園などを思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、小さな路地を入ったところ、曲がりくねった石畳の坂道を上りきったところにこそ、長崎の本当の魅力は眠っています。長崎の良さを味わうのは、まちを歩くのが一番なのです。「さるく」とは、まちをぶらぶら歩くという意味の長崎弁。まち歩き観光「長崎さるく」では、長崎名物・ガイド付きまち歩きツアーをご用意しています。さらに、進化を続ける「長崎さるく」の楽しさは、まち歩きだけではありません。長崎ならではの歴史や文化、歳時記を味わっていただく「まち体験」こそが「長崎さるく」の醍醐味です。ぜひまちなかに残る建物や橋、そしてそこで過ごした先人たちに思いを馳せながら、長崎のまちをさるいてください。たとえ歩くのが苦手な方でも、きっと長崎の魅力が感じられる「さるく」が見つかるはずです。

概略説明

今日は、光永寺から川端通・寺町通の中間にある中通りにある商店街を歩き、最後に中島川にかかる眼鏡橋へ行く。1614年に禁教令になり、キリスト教徒から仏教徒に戻って出来た寺町には、2つの神社と14のお寺がある。長い岬から名前が付いたといわれる長崎は、1571年にポルトガル船が入ってきて町づくりが始まり、海を埋め立てられ、町を作っていったとのこと。帆船を沖に留め、小舟で川をのぼり、商品の搬入出がおこなわれ、風の向きが変わらないと出航できないため、3~4か月滞在するので、賑わっていたそうだ。その後、ポルトガル人が追放され、一時衰退したが、出島ができ、オランダ人が来たことで再び活気を取り戻した。

中島川は、両方から埋め立てられて出来た人工川で、何回も洪水が起きていて、最近では昭和57年(1982)7月23日に大水害が起き、死者・行方不明299名の方が亡くなられ、その後、橋を高くしたため、若者以外は通らない橋になっている。

長崎の町は商人たちが作り、中島川は商品の搬入出に使われ、一つの町に一つの橋があり、貿易で儲かったら、橋を架けていき、木の橋はすぐに流れてしまうためから石の橋に変えていったそうだ。商売で儲けたお礼として橋を架けていったが、日本人では園山善爾(ぜんじ)が阿弥陀橋をかけたのが最初とのこと。なぜ阿弥陀橋と言ったかというと、牢屋があり、この橋を通って処刑場へ行く所からきているそうだ。ちなみに、眼鏡橋は1634年、阿弥陀橋は1690年に架けられた。

光永寺

1614年に、唐津から来た修験者慶西(けいさい)が建てた寺。五筋ある筋塀(築地塀)は、位が高いお寺だそうだ。江戸時代末期(1850年代)に、福沢諭吉が蘭学を勉強するため、19歳の時、長崎を訪れ、ここ光永寺と高島秋帆の門下生で砲術家の山本惣次郎の家と半年間ずつ住みながら、1年間勉強したとのこと。

原爆の爆風のため、壊れた本堂は平成元年(1989)に新しく建てられたが、イチョウの木と山門は奇跡的に残ったものを現在も見ることができる。境内には、平家物語に出てくる沙羅双樹の木があり、可愛い花が咲くそうだ。

一覧橋

高一覧という中国の人が、寄付を募って架けた橋で、昭和57年(1982)の大水害で橋が流失したため、中国の福州から安山岩8000トンを1億円で輸入し、橋を架けなおしたそうだ。

橋の中央が高くなっているので、橋から家の中が見えるため、昼間でもカーテンを下ろしているとのこと。

紺屋(こうや)通り

長崎くんちの船や傘鉾の飾りを作っている彫美堂(ちょうびどう)、本踊りを指導している藤間金彌さん、歌と三味線の師匠 杵屋さんが同じ通りに家があり、くんちのトライアングルといわれているそうだ。

中通り 

通りの長さ400mで130店舗あり、長崎で一番古い商店街で、江戸中期に出来たそうだ。毎年10月に開かれる長崎くんちで、奉納踊が披露されるが、当番の町のことを踊町(おどりちょう)と言う。59か町を7組に分けられているので、全部の町を見るためには、7年見に来ないと見ることができない。中通りには、7か町があり、通りの各町の所には、マークが刻まれている。

紺屋町(こうやまち)

染物屋の人々が集まっている町で、紺屋の布染めを再現した本踊り

新橋町

演し物は、阿蘭陀万歳(おらんだまんざい)

ざぼんやさん(くろせ弘風堂)

ざぼんは、アジア南部原産の柑橘類で、船員たちが水代わりに食していた果物で、一方長崎に入ってくる船の底には、重し代わりとして砂糖が積まれ、砂糖が豊富にあったそうだ。ざぼんを保存するために、砂糖につけたところからザボン漬けと名付けられた。漬物の名前になっているので、東北地方に送ると、ご飯のお供と勘違いされる人がいるとのこと。

諏訪町

長崎開港の祖といわれる長崎甚左衛門の弟 織部亮為英(おりべのすけためひで)が京都にいき、諏訪明神を諏訪町近く(現在の長照寺付近)に分霊勧請してきて、そのお使いが白龍だったことから、諏訪町の踊町が龍踊(じゃおどり)になったそうだ。その後、諏訪神社はキリシタンにより破壊され、現在は違う場所にあるとのこと。

諏訪小学校

校舎入り口の壁には、長崎くんちの踊町の様子がわかる壁画が描かれている。

校舎裏側の体育館(?)の壁にも壁画があり、1820年代の長崎の様子(港・出島・中華街など)が描かれている。

中通り町歩き

途中、通りを外れたりしながら、通りに戻り、中通りではガイドさんのお話しを聞きながら、ウィンドウショッピングを楽しむ。

カステラの試食があり、ザボンやチーズの入ったものもあり、モダンな感じがしておいしくいただいた。

岩永梅壽軒

江戸時代から続く老舗和菓子店で、現在の建物は明治35年(1902)に建てられた。原爆の爆風で柱がずれ、現在もその状態が残っている。5円玉を吊り下げ、その様子を見せてくれている。

麿屋町(とぎやまち)

刃物を研ぐ職人が多い町だったところ。小学校の校章がマークになっている。

銀屋町

銀細工の職人さんがたくさん住んでいた所。

上野彦馬生誕地

1838年ここで生まれ、父俊之丞は長崎奉行所の御用時計師で、カメラ(銀板写真機)を初めて輸入し、そのカメラが薩摩藩にわたり、お殿様(島津斉彬)の写真を撮った。この写真が、日本人が日本人を初めて撮って成功したものといわれている。商業写真家として活躍し、明治7年(1874) アメリカ金星観測写真や西南戦争の時の写真を撮った事でも知られている。

幣振坂(へいふりざか)

風頭山へ上る坂を幣振坂という。風頭山は安山岩でできていて、鳥居や石橋を作るときに山から石を下ろすのだが、あまりに石が大きくて人々が思いあぐねていると、一人の宰領が突然石の上に乗り御幣(ごへい)を振って励まし、何とか石材を麓へ下ろす事ができた所からきているそうだ。石山なので、湧き水がないから火事になると大変らしい。 

えごばた

溝よりも広いけど川よりも狭いものを、えごといい、その通りのことをえごばたというそうだ。1663年(寛文3年)に大火があり、66町のうち、57町全焼・3町半焼したため、人工の川(えご)を5つ作り、1673年に完成したとのこと。開国後、外国人が入ってきて、コレラの病気が流行ったため、石畳に変え、現役でも使われているそうだ。勾配を付けてあり、少しの水でも流れるようにしてある。えごの一つ、ししとき川は、獲れた動物をここで解体していたことから名づけられたとのこと。

古川町天満宮の鳥居

肥前鳥居といい、佐賀県を中心に北部九州でよくみられるそうだ。一番上の横に走る笠木を下で支える島木の2本が普通は分かれているが、肥前鳥居の場合は一体化されているのが特徴とのこと。1641年の年号があるので、1663年の大火を乗り越えていることがわかる。また、川添町と刻んであることから、町名変遷の考証資料になるそうだ。

東古川町

長崎くんちの踊町の演し物「川船」の根曳衆たちが、町に古くから伝わる「舟唄」を唄う歌詞の中に出てくる鳥が東古川町のシンボル。はりがねといい、はりというのはがん(雁)のこと、がねというのは鳴き声だそうだ。それをマークにしている。

キッチンせいじ跡

長崎の昔の電車2台を購入して、電車の中が客席になっている。残念ながら、御主人が体調を壊され閉店となった。

中島川

袋橋

袋橋は、もともと屋根のある木の橋だったが、1647年の大水害で流失し、1648~1652年の間に、石橋として建てられたそうだ。欄干親柱がねぎぼう(ねぎの頭)の形をしているのは、風水で魔物が通らないように、魔物が嫌うにおうものという意味とのこと。

石橋は個人が建てたという話しだが、橋と橋の間の護岸工事も昔は個人がおこなっていて、家の間口に合わせておこなうため、石垣の積み方も異なり、広かったり狭かったりと縦に線が入っている。丸い石は、江戸時代の前に積んだものとのこと。

原爆

原爆は当初小倉に落とす予定だったが、視覚で確認して落とす必要があり、雲が厚くて落とすことができず、長崎になった。常盤橋が目標だったが、雲が厚いため、上空を旋回して、浦上地区の三菱の兵器工場群を発見して、8月9日午前11時2分高度9600mから、高さ500mの所で炸裂したそうだ。高さ500mで炸裂させたのは、より多くの建物を破壊するためで、亡くなった人7万4千人・けが人約7万人だったが、浦上地区は山に囲まれていて、第一目標に爆弾が落とされていたら、もっと被害が大きかったとのこと。

近藤長次郎の石碑

薩摩の名前を借りて汽船を、長州藩が購入したお礼に、自分だけ海外に留学したいと言ったことが亀山社中のメンバーにばれて、龍馬がいなかったため19才で切腹した。「うき雲の 立ちおほふなる 浮世なり 消えなばこれを かたみともみよ」と辞世の句を詠った。(浮き雲が立ちおうている今のこの時世であるいつどうなるか命ほどもわからないもし私が一生のチリと消えたらこの歌を持って形見としてくれ)

眼鏡橋

眼鏡橋は、第十橋で、一番上流に架かる橋・阿弥陀橋から数えて十番目にある。当初は、第一橋、第二橋、第三橋・・(だいいっきょう、だいにきょう、だいさんきょう・・)と上流から読んでいたが、明治15年(1882)に医者の西道仙(にしどうせん)が各橋に名称をつけた時に、眼鏡のように見える所から眼鏡橋と名付けられたそうだ。興福寺二代目住持黙子如定(もくすにょじょう)が、中国の石橋をかける技術を教え、1634年に831個の石を使って架けられた。一連では怖いので小さい円を二つにして架けた。1647年(正保4)の大洪水で崩流するも、翌1648年(慶安元)に平戸好夢(ひらどこうむ)によって修復された。昭和57年にも大洪水で半壊し、831戸のうち125戸が流失する被害が出て、架け替えようという話しも出たが、下流にバイパスを作り、三方に流れが分かれるようになり、洪水の危険が減ったため、再修復が図られた。石橋は下からの強度は弱い(洪水)が、車が通るほど上からの強度は強い。再修復後、一部階段に変わったため、今は人しか通らない。石には、白い石と黒い石があり、白い石は水害後、黒い石は昔の石だということがわかる。橋の両側に石碑があり、寺町に行くときに渡る石碑には、ひらがなで「めがねばし」と書いてあり、お参りして帰りに橋を渡るときは、少し頭が良くなるから漢字で書いてあるとのこと。石積みにハートの石が3か所あり、探すのも楽しみの一つだそうだ。

長崎観光コンベンション協会 長崎さるく

長崎の観光地といえば、グラバー園や眼鏡橋、大浦天主堂や平和公園などを思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、小さな路地を入ったところ、曲がりくねった石畳の坂道を上りきったところにこそ、長崎の本当の魅力は眠っています。長崎の良さを味わうのは、まちを歩くのが一番なのです。「さるく」とは、まちをぶらぶら歩くという意味の長崎弁。まち歩き観光「長崎さるく」では、長崎名物・ガイド付きまち歩きツアーをご用意しています。さらに、進化を続ける「長崎さるく」の楽しさは、まち歩きだけではありません。長崎ならではの歴史や文化、歳時記を味わっていただく「まち体験」こそが「長崎さるく」の醍醐味です。ぜひまちなかに残る建物や橋、そしてそこで過ごした先人たちに思いを馳せながら、長崎のまちをさるいてください。たとえ歩くのが苦手な方でも、きっと長崎の魅力が感じられる「さるく」が見つかるはずです。

所在地
〒850-0862 長崎県長崎市出島町1-1 出島ワーフ2階 長崎観光コンベンション協会内 長崎さるく受付
電話番号
095-811-0369

ツアープラン情報

ツアー名
眼鏡橋から中通りへ
料金
大人 1,400円
小学生 700円
開催日時
9:00~17:30
(12/29~1/4を除く)
ツアー時間
120分
予約受付
3 日前まで
お問い合わせ
長崎観光コンベンション協会 長崎さるく
TEL
095-811-0369
定休日
12/29〜1/4
営業時間
9:00〜17:30
このツアーに申し込む