小京都と呼ばれる伊賀上野。江戸時代に築かれた城下町の街並みがいまも色濃く残され、凛とした情緒にあふれています。伊賀忍者、俳聖・松尾芭蕉翁などに触れながら伊賀上野の主な観光スポットを訪れます。
上野市駅のスポット
大正6(1917)年築の忍者市駅(上野市駅)と、奥に伊賀上野城、手前に松尾芭蕉像が見える。駅舎の屋根は、マンサード屋根と言い、どこから見ても三角屋根だ。国の重要有形文化財に指定されている。
忍者だまし絵
町中には忍者のだまし絵がいくつもあり、写真スポットとなっている。
上野天神宮(上野天満宮、菅原神社)
鳥居と楼門が両方あるのは、最初に薬師寺というお寺があった名残りになる。上野天神宮は、菅原道真が祀られている。
貝おほひ
松尾芭蕉が29歳ころ江戸に旅立つ時に処女句集「貝おほひ」を上野天神宮に奉納していて、その石碑がある。
楼門
1704年築の楼門の左右2体の随神には、「阿(あ)」「吽(うん)」の菅原道真像が鎮座している。
本殿
上野天神祭のだんじり巡行の順番を決めるくじ取式が拝殿内でおこなわれ、先陣を取ると名誉を得ることになる。
藤堂高虎
藤堂高虎の旗印は「三つ丸餅」といい、黒字に白の餅が三つ描かれている。早く城(白)を持ちたいところから来ている。高虎が浪人だった頃、空腹でお金がないにもかかわらず餅屋さんで餅を全部平らげた。店主からおしかりを受けると思ったら、食べっぷりが見事だと逆にほめられたという逸話がある。旗印の餅はそこから来ている。
藤堂高虎には、藤堂玄蕃(げんば)・藤堂新七郎という侍大将がいた。その下屋敷があったところをそれぞれ玄蕃町・新七郎町と呼ばれていた。現在は二つ併せて玄蕃町となっている。
松尾芭蕉
松尾芭蕉は、藤堂新七郎の若殿様の屋敷に台所用人として19才から雇われていたと思われる。京都から俳句の先生・北村季吟が若殿様に教えに来ていた時に、一緒に習っていて、どんどん腕を上げていった。芭蕉23歳の時に若殿様が亡くなってしまったので、仕官を退いた。その後各地を回り、俳句の修行をしたのち、29歳のころ江戸に向かった。
江戸から帰ってきた時に、若殿様の息子さんの招待を受けて、若殿様を偲んで詠んだ句「様々な こと思い出す 桜かな」という有名な俳句を残している。
松尾芭蕉生家
松尾芭蕉の生誕地には2説あり、現在の伊賀市内にあるここ赤坂と10 km離れた柘植とある。柘植生誕説は、父親が生まれたためだが、芭蕉が柘植で詠んだ俳句はほとんどない。
伊賀上野藩には無足人と言う下級武士の制度があり、松尾家は無足人だった。その家柄でなぜ侍大将の将来ある若殿様の家で仕えたかは不思議だそうだ。
芭蕉の母親は、藤堂高虎が宇和島から伊賀上野に移ってきた時に一緒についてきた桃地家の娘と伝えられている。字は違うが、伊賀の三大上忍の一つ百地家と重なるため、松尾芭蕉が忍者だったという説がある。百地家の家系図の中の重左衛門の項目に、「藤堂新七郎様御家来へ養子に参り芭蕉と改名」と書かれているが、この家系図がいつ作られたかは定かでない。また伊賀上野出身で、46才と言う年齢・150日間・約2,400kmの長旅(奥の細道)をしたことから、幕府からの命令で探りにいたのではないかという事が、もう一つの忍者説になる。弟子曾良の日記と松尾芭蕉が書いた奥の細道では、仙台藩と金沢藩の行程に食い違いがあるので、曾良だけが隠密ではなかったという説もある。
芭蕉の名前は、植物のバショウから来ている。
生家前の一角には、[古里や 臍(へそ)の緒に泣く 年の暮れ」と芭蕉が書いた字の石碑がある。芭蕉44歳の時に母親が亡くなったが、すぐに帰れなかったため、のちに臍の緒を見た時の想いを詠んだ句になる。
昔の家らしく、間口が狭く奥に長い敷地の家で、土間を通って奥に進むと、建物の中間ほどにかまど・井戸や風呂・トイレなどの水回りがある。
釣月軒(ちょうげつけん)
建物を抜けると、お兄さんが芭蕉さん用に建ててくれた離れがあり、お弟子さんを呼んで句会をやったり、自分で俳句を作っていた釣月軒がある。貧しい家だったので、竹の天井や縁のない畳など簡素な造りになっている。
その奥の庭には、芭蕉が大阪で亡くなったため、使うことなかった・芭蕉のために弟子たちが建てた庵(無名庵)があった。
故郷塚(愛染院)
松尾家の菩提寺・愛染院の一角には、家族とともに芭蕉が晩年に墓参りをした時に詠んだ句「家はみな 杖に白髪の 墓参り」が石碑になっている。
芭蕉51歳・元禄7年(1694年)10月12日、大阪南御堂の花屋で亡くなった。最後の句は、「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」になる。木曽義仲を慕っていたため、木曽義仲の横に埋めてほしいと遺言にあり、滋賀県膳所にある義仲寺に松尾芭蕉の墓がある。亡くなったことを聞き、伊賀上野の門人が墓に埋められる前に芭蕉の遺髪をもらってきた。その遺髪が埋められているのが故郷塚になる。
子供を二人抱えていた寿貞さんという人を松尾芭蕉は養っていたが、旅に行っていたため、死に目に会えなかった。寿貞さんが亡くなった後で詠んだ句「数ならぬ 身となおもひそ 玉祭り」の 石碑が故郷塚近くにある。寿貞さんは芭蕉の世話になってばかりで気にかけていたが、「そんなことを思わなくてもよい、心から供養します」という意味の句。
農人町(別名:芭蕉町)
軒先や電柱の行燈には、芭蕉や俳句大会(芭蕉祭)で特選になった人の俳句が掲げてある。
追分(街道の分岐点)
奈良から関宿に向かう伊賀を起点に津や伊勢に向かう伊賀街道の分岐点を追分という。
奈良から関宿までの街道を加太越(かぶとごえ)奈良道(ならみち)とも言う。
伊賀牛
伊賀牛は松阪牛に匹敵するおいしさと言われているが、生産量が少ないため、ほとんど地元で消費される。肉関連の飲食店が多く、精肉店もいくつかある。切り落としの肉を手ごろな値段で買って家で食べたが、とてもおいしかった。左写真は、名店の一つ・金谷さんになる。
薬屋
江戸時代の建物の薬屋で、薬草になるベニバナを扱っていて、瓦に「紅」と書いてある。
寺町通
寺町通には7つのお寺がある。藤堂高虎は和歌山・宇和島など各地に行っているので、その地の由緒がある寺がついてきている。お寺が1か所にまとまっているのは、戦さがあった時に、防御の役割を果たすためだ。
上行寺(じょうぎょうじ)
上行寺は藤堂家の菩提寺になり、東京にある寒松院(かんしょういん)など全部で菩提寺が3か所ある。藤堂高虎の戒名は「寒松院殿道賢高山権大僧都」で、徳川家康の信頼厚かった天海僧正が付けていて、二人は日光東照宮の建立に関わっている。
その他の寺
武家屋敷「入交(いりまじり)家住宅」
入交家は、高知出身で長曾我部家の3,000石の家臣だったが、関ケ原の戦いで豊臣方について敗れたあと、藤堂家に召し抱えられた。
藤堂家が建てた建物を入交家が拝領した住宅で、立派な長屋門がある。庭には牡丹の花があり、時期には咲き乱れるので、見物客が多く訪れる。
一乃湯
大正15(1926)年築の公衆浴場で、石柱門と本館が国の登録有形文化財に指定されている。石柱門の上のネオンサイン(白丸)は、創業当時のままで、シンボルとなっている。
松本院
修験道の寺で、ガイドさんも25歳の厄年の時に、大峰山に登って修行されたそうだ。
蓑虫(みのむし)庵
芭蕉の弟子の服部土芳(どほう)は、伊賀の弟子の取りまとめをした人物で、芭蕉の教えなどまとめた三冊子(さんぞうし)を編纂したり、芭蕉の俳句を編集して句集を出して、松尾芭蕉の名を後世に遺した人物の一人になる。
蓑虫庵は、当初貞享5(1688)年に建立されたが、元禄時代に一度焼失したため、その後再建された。句会を開くために5つの庵があったうちの一つになり、唯一現存する建物だ。
庵内の奥にかかっている掛け軸には、服部土芳がこの庵を作ったのを祝い、芭蕉が江戸で詠んで贈った俳句「蓑虫の 音を聞きに来よ 夏の庵(いお)」になる。
今の入口とは別に、庵ができた当時の入口がある。
忍町(しのびちょう)
江戸時代初期に「忍の衆」と呼ばれた伊賀者の屋敷があったことから、忍町と呼ばれるようになった。最初は忍び衆と呼ばれていたが、敵側からわかるので伊賀衆と呼ばれるようになった。
武家屋敷「赤井家住宅」
国の重要有形文化財に指定されている建物になる。丹波の赤鬼と言われた赤井直正は、黒井城の城主で非常に強かったが、織田信長の家来だった明智光秀に攻められて滅ばされた。息子の赤井直義が京都にいた時に、藤堂高虎に侍大将として1,000石で召し抱えられた。
むらい萬香園
彦根藩の侍だった村井家は、伊賀に仇(あだ)討ちをするために来たが、返り討ちにあったと伝わる。子孫が伊賀に住み着き、宿屋を始めた。宿代代わりに刀を置いていった人もいたため、家には刀が木箱に3つほどあった。太平洋戦争の時、供出して表彰されたほどだった。
1854(安政元)年に起きた安政の大地震で多くの建物が倒壊した。早く復興させるために盛土して地面が高くなったが、この家は倒壊しなかったため、家の中は道より35㎝低くなっている。家が建って300年ほど経っている。家の外から見ると、白壁造りだという事がわかる。
現在は伊賀茶を扱う老舗の御茶屋さんになり、抹茶ソフトなど甘味処としても有名で、メディアの取材も多いそうだ。お店に入ると、忍者猫「茶々」が出迎えてくれる。
ご主人の話が面白く、店内にとどまらず講演依頼も多いそうだ。防護用として戦国時代使われていた火縄銃を持っていた家が伊賀では多かったそうで、種類も玉の大きさでいくつかあるので、村井家に伝わる火縄銃を2丁見せていただいた。実際持ってみると重く、使用した痕も残っていた。
戦争で火縄銃も供出したが、もしかの時に使えるように軍が残していて使わなかったたため、戦争終了後に戻ってきた。
寺村家住宅
江戸時代後期に建てられた町家建築で、両替商を営んでいた。上野城下で入母屋妻入りの主屋は2棟残されているのみで、極めて貴重な建物は、伊賀上野で一番最初に国の登録有形文化財に指定されている。最大の特徴はなまこ壁で、「つづみ繋ぎ」と言ってあまり他にはないものになる。
旧上野警察庁舎
旧上野警察庁舎は、明治時代に建てられた和洋折衷の建物で、釘は使われていない。当初は別の場所にあった。民間に払い下げられて、新聞社をやっていた。
旧崇廣堂(すうこうどう)
旧崇廣堂は伊賀上野藩の藩校で、文政4(1821)年・10代藩主の時に建てられた。大広間型構造で柱が少なく、天井が高い。現在、国史跡となっている。上杉鷹山の文字の扁額がある。藩校は、文場という学問の場所だけ残っていて、他に、武芸をやっていた場所や鉄砲の訓練した場所があった。
侍姿をしていた「伊賀忍者特殊軍団 阿修羅」の方がマスメディアの取材でおられたので、旧崇廣堂をバックに一緒に記念写真を撮っていただいた。
旧三重県第三尋常中学校校舎
旧三重県第三尋常中学校校舎は、明治33(1900)年に建てられた。中央の玄関から左右対称に細長い校舎(東西68m)になっている。
現在は上野高等学校本館として使用されていているため、外からしか見ることができない。校舎の奥には上野城も見える。
昔ながらのかたやき屋さん「鎌田製菓」
かた焼きは伊賀の名物で、元々は非常食として用いられ、現在は店によって硬さや味が違い、特色がある。
鎌田製菓では30~40分かけて手焼きで行う。いい匂いがして、食べるととても香ばしい。
カルチャーボランティアガイド「いがうえの語り部の会」
忍者や芭蕉など、観光スポットをただ訪れるだけではなく、文化やルーツの解説などを交えながら伊賀上野をご案内いたします。地元ならではの語り部の話を聞きながら、旅をいっそう楽しんでみませんか?
- 団体窓口
- 伊賀上野観光協会
- 所在地
- 〒518-0873 三重県伊賀市上野丸之内122-4 だんじり会館内
- 電話番号
- 090-9264-1360
ツアープラン情報
- ツアー名
- 城下町散策健脚コース
- 料金
- ガイド1名につき協力費1,000円
(各施設の拝観料は別途要)
※ ガイド1名につき、15名程度
※ 12時30分を含むお昼を挟んでのご案内は、昼食代1,000円をご負担いただきます。または昼食をご一緒させていただき、ガイドの昼食代金をご負担願います。
- 開催日時
- 8:30〜17:15
- ツアー時間
- 3時間〜3時間30分
- 予約受付
- 10 日前まで
- お問い合わせ
-
伊賀上野観光協会
- TEL
- 090-9264-1360
- 定休日
- 12月29日〜1月1日
- 営業時間
- 8:30〜17:15