院内銀山コース

院内地区は、大昔火山の一部で噴火によりカルデラが作られました。火山の恵みである院内銀山は、発見から閉山まで約350年続いた国内有数の銀山で、多くの人が集まり、当時の一大消費地でした。

帯同していただいたガイドさん

お名前
武石 武司 さん
ガイド歴
6年
趣味・特技
スキー・カメラ
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明治天皇行在所

明治14年に明治天皇が院内銀山を訪れた時、このお宅で泊まっている。塀は院内石を使用している。

旧院内尋常高等小学校跡の石垣

鉱山で鉱石を精錬した後に残るカスを「からみ」と言い、それを固めたものを土台に使われている。

石より硬い材質になる。

旧院内町役場倉庫

湿気に強く、火に強い院内石を利用して造られている倉庫で、中はさらっとしていてエアコンが効いているかのように快適である。

院内銀山異人館(2階の展示コーナーは撮影禁止)

明治時代、院内銀山の中にドイツ人技師たちが住んでいた建物を異人館と呼んでいた。その再現した建物で、JR院内駅に併設された資料館になる。JR院内駅は、明治37年に秋田県最南端の駅として開業した。昭和63年に駅舎が火事で焼けたため、再建時に異人館が建物のモデルとなった。

院内銀山の概要

関ケ原合戦で負けた侍は落ち武者として、住み慣れた土地を離れ、新しい土地でお互いに助け合って生活していた。湯沢の院内地区に、福井県越前の落ち武者の村山宗兵衛(そうべえ)が雄物川で砂金取りをしていた。河原の石の中から銀の鉱石を発見し、上流に銀のとれる場所があることを見つけ、院内銀山を発見した。

久保田藩の佐竹家は幕府に採掘の許可を得て、銀山奉行を定め、1607(慶長11)年から採掘開始した。

院内銀山の名前が全国に知られるとたくさんの人が集まり(7千人とも1万人とも諸説あり)、にぎやかな町が作り出された。最盛期には建てられたお寺の数は11に及んだ。そこに住む人たちのおかげで周辺にも恩恵があり、野菜は周辺地域から、米・肉・魚・塩などの物資は久保田藩内から川を通して舟で運ばれ、そして湯沢雄勝地域での造り酒屋は20軒ほどあって、酒を造ることも消費することも大変盛んだった。

1612(慶長17)年をピークに、産出量が減っていき、坑夫の数も数百人まで減っていった。

1800年代に入り、鉱石から金属を取り出す方法の改良により、再び銀の生産量が増え「天保の盛り山」と呼ばれた時期の1833年~1843年の間、銀の産出量が日本一となった。

江戸時代の頃の銀山労働者は珪肺病(よろけ)を病む人が多く、若くして亡くなる人が多かった。30歳を迎えた人はお祝いに赤いふんどしを付けたと言われる。

院内番所(関所)跡

羽州街道で、佐竹藩の南の入り口の院内に関所が1608年に設けられ、浪人の取締りと院内銀山の警護が重要な役割だった。

院内銀山跡

十分一(じゅうぶいち)御番所跡

院内銀山に出入りできる唯一の場所だった。銀山内に入るすべての物品について価格評価し、1割の税金が課せられたことから、名付けられた。必ず通るところなので、高札場がここに設けられていた。石垣が当時のものとして残っていて、十分一の地名は今も残っている。この奥に町が広がっていた。

異人館跡

明治時代に入り、明治9(1876)年に政府直轄となり、巨大な投資によって近代化された。明治12(1879)年にドイツ人技師5名が指導のため院内銀山に来山し、異人館はその居宅として建築された。

明治18(1885)年に古河鉱業に払い下げられ、明治28(1895)年には過去最大の銀の産出量となった。その当時、異人館は所長宅として利用された。

その後銀価格の暴落等によって採掘量が減り、最終的に昭和29(1949)年に閉山となった。異人館の建物は、銀行として活用された。石垣や建物の基礎はそのまま残っている。

三番共葬墓地

共葬墓地は、11あったお寺に入りきれなかった数多くの人たちの墓地と言われている。当時は土葬の風習だったはずだが、銀採掘によって病気のため短い人生で亡くなる人数が多かったため、火葬されたのではないかとのこと。 

明治39(1907)年1月4日に坑内で大火災が起こり、百数名以上の人が亡くなった。弔うため、建てられたお地蔵様がある。

墓石には、亡くなった人が好きだったものが彫られている。写真の墓には、碁盤と碁石が彫られている。

江戸時代、1800年代の医者で35年間にわたり「門屋養安日記」を残した門屋養安の墓がある。門屋養安は、珪肺病(よろけ)予防対策で建てられた療養所の医師として活躍した。養安は銀山お抱え医師として、また宿屋の主人として多くの人々と関わってきた。書き残した日記は、院内銀山史・秋田藩政史として、貴重な歴史資料として評価されている。

小関清水

元和(げんな)の頃(1615年~1624年)、小関太夫という白拍子と若い浪人が一緒になったが、小関太夫は21才の若さで亡くなった。浪人が亡骸を主鈴坂下に埋めようとしたところに清水が湧き出て来た。住民はこの清水のことを小関清水と名付けた。

その後若い浪人は出家し、行方不明となった。30数年後老僧が現れ、石に「南無阿弥陀仏」と刻み供養して立ち去ったという話が残っている。昭和52年に主鈴坂の整地作業中、偶然にも「南無阿弥陀仏」と刻の石が見つかっている。

御幸坑(みゆきこう)

元々五番坑と呼ばれていたが、明治14(1880)年9月21日に明治天皇がここを訪れたことで御幸坑と命名された。この9月21日が、現在鉱山記念日に制定されている。

御幸坑は、鉱物を持ち出さないように、坑夫が出入りできる唯一の場所だった。

鉱石を掘り出すのに、大量の地下水があるため、抜水作業が最も大切で大変な作業だった。木製で手動のポンプを使って少しずつ高いところにくみ上げ、大勢の作業員で次々と上へ送り出す作業をおこなっていた。坑道の深さは400mほどある。

金山神社

この辺りは雪深く、鳥居の上まで雪が積もるため、鳥居や社の傷みは雪のために激しいそうだ。今日は雨模様で階段の下りが滑りやすいため、上へ行くのは中止となった。

「天保の盛り山」と言われていた一番栄えていた頃の院内銀山の地図があった。この地図を見ると、今日訪れた部分は一部で、町が広く広がっていた事がわかる。御幸坑より奥のほうは、現在入れないようになっている。

岩井堂洞窟遺跡

縄文時代~弥生時代にかけて数千年間にわたり、住居として利用された洞窟遺跡で、国指定の遺跡となっている。洞窟は奥行き3m・間口約4mあり、発掘調査が終了後は埋められている。

近くには、当時の面影を残す洞窟がある。

ゆざわジオパークガイドの会

2014年5月の発足以来、地域の皆様のお力添えを頂きながら、長い地球の歴史やストーリーを学び、ゆざわジオパークの語り部となるべく日々活動しております。 ガイドの中には活動を通じて、「生まれも育ちも湯沢市だが、知らないことがたくさんあった。」と言う人もいれば、「湯沢出身ではないが、こんなに素敵な所を知ることができてうれしい」と言う人も。老若男女・出身地を問わず、日々新たな発見は尽きません。 ゆざわジオパークを通じて、皆さんが知っているゆざわ・知らなかったゆざわ、私たちが知っているゆざわ・知らなかったゆざわを、改めて五感で体験・共有する機会のお手伝いができれば幸いです。 少人数でも、短時間でも、移動を伴わなくても、可能な限りお手伝いさせていただきます。

団体窓口
湯沢駅観光案内所
所在地
〒012-0827 秋田県湯沢市表町2-2-10 湯沢駅観光案内所
電話番号
0183-56-6226

ツアープラン情報

ツアー名
院内銀山コース
料金
2時間 2,000円(ガイド1人当たり10名まで)
開催日時
9:00〜16:00
ツアー時間
約2時間
予約受付
7 日前まで
お問い合わせ
湯沢駅観光案内所
TEL
0183-56-6226
定休日
年中無休
営業時間
8:00〜19:00
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