大宰府政庁跡と元号「令和」ゆかりの地コース

太宰府市の中央に所在する大宰府政庁跡は、古代において九州全体を統括した役所「大宰府」の中心となる建物があった場所です。本コースは、1300年以上の歴史を誇る国特別史跡・大宰府跡を巡り、太宰府の歴史や文化を堪能するとともに、元号「令和」ゆかりの地として注目された太宰府市の令和・万葉ゆかりのスポットを散策します。

大宰府展示館

役割

太宰府を訪れる多くの方々が、菅原道真公を祀った太宰府天満宮がメインだと思っている。古代大宰府の歴史の中心は大宰府政庁で、まずは展示館に入って概要をつかんでほしいとのこと。展示館は開館40年経つ。

大宰府条坊イメージジオラマ

2021年11月広島県在住の森野晴洋さんがボランティアで製作したジオラマ。約2㎞四方の碁盤の目状になっている街並みを、丁寧に再現されている。全体の街の規模は相当大きく、これほどの規模の碁盤の目状の街並みは、平城京・平安京・藤原京と大宰府くらいだ。政庁の正面真ん中には、幅36mの大通りがあった(朱雀大路)。大宰府政庁は700年頃から鎌倉時代に入るまでの500年の歴史がある。 

「だざいふ」には、大宰府と太宰府があり、古代律令時代の役所とその遺跡は「大」の字を使い、中世以降の地名や天満宮については「太」の字を使っている。

大宰府政庁の中庭は、外国から来たお客様を迎え、儀式を行うスペースになっている。正殿は南に行くほど下がっているので、正殿から見下ろす様に造られている。正殿は山を背にしている。

大宰府周辺の地形

大宰府の街並みは1辺が90m四方の碁盤目状に区画されており、東西の列である条が22条、南北の列である坊が東側に12坊、西側に8坊という規模で条坊制が広がっていた。大宰府につながる官道は東と西に2本あった。西の官道は、福岡の鴻臚館に通じていて、鴻臚館に来た外国のお客様を案内する時の道になり、日本の国はすごいなと思える(思わせる)のが目的で、山があろうと関係なくまっすぐに造られていた。その入り口には羅城門があり、街には迎賓館もあった。大宰府政庁の役目は、外交・防衛と九州を治めることだった。菅原道真公も赴任している。

663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたため、外国から攻めてこられる可能性があった。福岡市内にあった役所を大宰府に移転して防衛線を築いた。大宰府の手前には60mの幅で濠を作った水城と政庁背後の山頂には360度土塁で囲って逃げ込むことができる大野城があり、守りの態勢を敷いた。

出土品1・鬼瓦

坂本八幡宮の近くで発見された鬼瓦は、象徴的で立体的な形をしている。大野城や水城でも同じような鬼瓦が発掘されている。

素掘りの溝

展示館内に、発掘調査の状態の一部、溝が残っている。溝はとても大事で、溝の横には必ず道路があり、溝は使わなくなったら、ゴミ捨て場になる。いつごろまで使われていたかとか、捨てられた物を調べてどういう生活がしていたのか、などがわかる。

大宰府政庁正殿の土層断面

地中の土を見ると、3回建て替えられていることがわかる。最初は大きな穴を掘って、70㎝ほどの柱を掘って埋めている。2回目と3回目は礎石の上に柱を立てていることがわかる。3回目は2回目の礎石を抜いて置いている。

出土品2・青磁・白磁

青磁や白磁の壺がよく出てくる。大宰府が外国からの入り口で、どんどん外国のものが入ってくるので、大きな都市だったこともわかる。

玉石敷の溝

奈良時代の溝を発掘された当時のままの姿で公開されている。溝には石敷きがしてあるので、池用か儀式用ではないかとのこと。

梅花の宴

万葉集に載っている梅花の宴で詠まれた32首の和歌の前に書かれた序文のなかから「令和」が選ばれた。序文には、いつどこでどういう状況で和歌が詠まれたのかが書かれている。「天平2年正月13日(旧暦2月)・・初春令月(初春のいい日で)・・気淑風和(風は和らいで)・・」とある。当時大宰府長官だった大伴旅人の館で開かれたと考えられている。令和の元号になった令和元年5月1日には、1日で6千人が展示館を訪れた。

梅花の宴の食事

大宰府展示館開館10年記念して、梅花の宴の食事を再現しようとイベントがおこなわれた時の模型が展示されている。文献を参考に作られた。

大宰府政庁跡

受け入れ機関の鴻臚館、海産物などの産地である志賀島、西のほうには船を修理する周船寺(すせんじ)、政庁から南に8㎞のところにある基肄城(きいじょう)は防御用の城などそれぞれの役目を持っていた。

宅地開発が盛んだった50年前頃、政庁跡をしっかり残すためには発掘を行わないといけないということで始まった。941年に藤原純友の乱があり、大宰府政庁は全部焼かれた。その後建て直されたので、正殿は2度建てられたと思われていたが、発掘調査をしたら、3度だったことがわかった。律令制時代の建物として1100年頃まで機能したが、鎌倉幕府ができて武士の世界となり、九州の中心は博多に移った。

南門の丸柱の大きさから判断すると、門の中で一番大きく、2層で高さ約18mの建物だった。礎石や石垣に使われている石に花崗岩が多いのは、この近くで多くあるためだ。

正殿背後にある大野城があった四王寺山は、峰がたくさんあり、雨が降ると峯の間から霧が立ち上る。大伴旅人が奥さんを亡くした後、友人山上憶良が旅人の心境を「大野山 霧たち渡る わが嘆く おきその風に 霧たちわたる」(ここから上る霧が涙に重なった)と詠んだ。5~6月頃霧が出ると、栴檀(せんだん)の香りとともに幻想的な風景が広がる。

桜の咲く頃には、多くのお客様が訪れる。

いつ来ていただいても、気持ちがいいと感じていただける場所なので、ぜひ一度訪れてください。

山を背にして正殿から中庭、そして太宰府の町を望む
正殿の柱を支えた礎石:後ろに見える木(トウカエデ)には近代の玉垣がある
中門から正殿側を見た風景:奥の山には大野城があった
コンクリート部分は回廊跡
南門跡・礎石の大きさから高さ約 18m の 2 層の建物

3本の碑

正殿跡には、政庁跡の意義を説明し後世に守り伝えていくために、3つの碑が建てられた。

中央:「都督府古趾」碑 明治4(1871)年に、高原善七郎氏が建立

左:「太宰府址」碑 明治13(1880)年、太宰府を中心とした地域の人々が建立 

右:「太宰府」碑 大正3(1914)年黒田藩の学者であった亀井南冥没後100年に建立

坂本八幡宮

坂本八幡宮は元々、坂本集落の鎮守様として祀られていた。元号「令和」に関係する梅花の宴が坂本八幡宮近辺でおこなわれたのではないかということになっている。

宴の候補地は3か所ほどある。

  1. 大宰府展示館の東側
  2. 客館跡近くの榎寺東側の丘陵(菅原道真公が住んでいたところ)
  3. 長官だった大伴旅人が詠んだ歌の中に、「わが丘に」とあり、そばに丘陵が位置する坂本八幡宮周辺は戦後より推定地の一つとされてきた

令和元年になった5月1日には、その日の日付が入った坂本八幡宮の御朱印をもらいに、多くの人が訪れた。発表になった時の文字を書いた茂住修身氏の記した石碑もある。

万葉歌碑

大宰府では、和歌が多く読まれている。展示館から政庁跡に向かう途中のある石碑。

  • 「あおによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の 薫(にお)ふがごとく 今さかりなり」

小野老(おののおゆ)が奈良の都を思いながら詠んだ歌。

万葉歌碑2

政庁跡から坂本八幡宮に向かう途中にある碑で、大宰府で2番目に位の高い大弐紀卿(だいにのききょう)が詠んだ梅花の宴の最初の歌。

  • 「正月(むつき)立ち 春の来たらば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ」
    (梅を愛でながら さあ楽しく歌いましょう)

万葉歌碑3

坂本八幡宮内にある碑。

  • 大伴旅人「我が岡に さ雄鹿来鳴く 初萩の 花妻問ひに 来鳴くさ雄鹿」
    (失った妻への自分の思いを歌った)

万葉歌碑4

坂本八幡宮の東にある碑。

  • 大伴旅人「世間は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり」
    (奈良の都からもたらされた訃報を聞いて、悲しみを表した歌)

大宰府史跡解説員(史跡解説ボランティア)

史跡解説に必要な研修を受講した後に、保存協会の委嘱のもと活動しています。「古都大宰府のすばらしさを多くの方々に伝えたい」という思いで、太宰府市及びその周辺の歴史・文化を紹介しながら史跡地の案内解説を行っています。

団体窓口
(公財)古都大宰府保存協会
所在地
〒818-0101 福岡県太宰府市観世音寺4丁目6番1号 大宰府展示館内
電話番号
092-922-7811

ツアープラン情報

ツアー名
大宰府政庁跡と元号「令和」ゆかりの地コース
料金
ガイド(解説員)1名 1,000円(交通費)
※ 大宰府展示館入館料 大人1名 200円別途
※ 入館料や移動の交通費、解説が昼食時間帯にかかる場合のガイドの昼食代はお客様にてご負担下さい。
開催日時
9:30〜16:30
ツアー時間
90分程度
予約受付
14 日前まで
お問い合わせ
(公財)古都大宰府保存協会
TEL
092-922-7811
定休日
月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12/28〜1/4)
営業時間
9:00〜16:30
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