関ケ原史跡めぐり旅

関ケ原の古戦場を中心に、歴史の町関ケ原をご案内します。

徳川家康当初の陣跡

スタート地点の岐阜関ヶ原古戦記念館から関ヶ原駅のほうへ100mほど歩いたところから東方面に見える山が桃配山(ももくばりやま)で、その中腹に徳川家康は当初陣を張ったそうだ。

関ケ原町には9つの国史跡があり、そのうちの一つとのこと。

岡山の烽火場

同じ場所の北東方面にある(丸)山の中腹に、旗が立っているところが、東軍の竹中重門・黒田長政の陣を張った所で、ここから烽火が上がり、関ヶ原合戦が始まった。

黒田長政が幼少の頃、関ヶ原の隣の垂井町にあった竹中家で匿われていたことがあった。二人はその頃一緒に過ごしたのではないかとのこと。ここも国史跡の一つ。

東首塚、松平忠吉・井伊直政陣跡

合戦終了後に、徳川家康から竹中家に死者を弔うよう命じられ、東首塚が作られた。西首塚もあるが、そちらは胴塚で、地元の人たちが供養をおこなっている。近くには首級墳碑があり、こちらは1817年に関ヶ原本陣の主を務めていた古山兵四郎により、建てられた。悲惨な戦いがあったことを忘れることがないように後世に伝え、平和な世の中を目指す目的だそうだ。ここも国史跡の一つ。

同じ敷地内には、松平忠吉・井伊直政の陣跡がある。松平忠吉は徳川家康の4男、井伊直政は徳川4天王の一人で、松平忠吉は初陣だった。井伊直政が松平忠吉の補佐の役割をしたようで、松平・井伊隊が発砲し、開戦になった。本来東軍先鋒は福島正則と決まっていた。

東軍勝利確定後、島津隊が敵中突破して逃げたので、松平・井伊隊が追いかけたが、井伊直政はそこでケガをして、1602年に亡くなった。

電柱の豆知識

関ケ原町の電柱には、豆知識として関ヶ原合戦やその当時の知識について書かれている。

関ヶ原合戦のあった場所から少し西側に行ったところに不破の関があり、中山道を通って京に向かう重要な関所だった。不破の関の周辺が原っぱだったことから、関ヶ原と名付けられたと言われている。

田中吉政陣跡

関ヶ原合戦後、石田三成居城の佐和山城を攻め落城させたことと山に逃げ隠れていた石田三成を捕縛したことで、手柄を上げた。同じ近江出身で顔見知りだったそうだ。

徳川家康 最後の陣地、床几場

背後の南宮山にいる毛利秀元は動かないと判断し、桃配山では戦況が見えないので石田三成の陣とは直線距離で800mの位置に陣を進めた。

陣跡と同じ場所にある床几場(しょうぎば)は、合戦での論功行賞を判断するために、敵将の首を自ら確認した。ここも国史跡の一つ。

江戸時代、大名が参勤交代でここを通るときは必ずここに立ち寄り、一礼して通ったそうだ。

徳川家康は、「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)を旗印に使っていた。19才の時に、今川義元の下で桶狭間の戦い、戦に負け菩提寺の大樹寺で自害しようとした。その時、住職登誉から授けられた言葉で、切腹を思いとどまった。「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す」という意味で、この言葉を御旗にしたそうだ。

ゴミ置き場

ゴミ箱のカラス侵入防止のカゴにも、石田三成と徳川家康の紋があり、関ヶ原合戦を盛り上げている。

歩道橋の上から

徳川家康陣跡から100mほど北西方面に行くと、国道365号線をまたぐ歩道橋があり、その上から陣を見る。

西側方面を見ると、工場越しに見える右手の山は北天満山で、左手の山が南天満山で、この辺りに西軍の前線が陣を張っていた。

北西方面に見える笹尾山の中腹に旗が立っているところが、石田三成の陣跡で、徳川家康の陣から直線距離で約800mほどの距離にある。

南方面の山の頂上近くに黄色い旗が見えるのが松尾山で、小早川秀秋の陣跡だ。

(関ヶ原合戦)開戦地

東軍(福島正則の陣)と西軍(宇喜多秀家の陣)から推測すると、右写真のガイドさんが指をさしているすすきが生えた空き地辺りが開戦地とのこと。1600年10月21日(旧暦9月15日)早朝に戦いが始まった。

ここも国史跡の一つ。

小西行長の陣跡

開戦地近く陣跡がある。合戦終了後、山中に逃げたが見つかり、石田三成、安国寺恵瓊とともに、10月1日に京都の六条河原で処刑された。

笹尾山 石田三成の陣跡

笹尾山の中腹に陣を張った石田三成のいた辺りの標高は198mで、30mほど下のふもとには、家臣の島左近が守っていた。西軍は山側を固め、鶴翼の陣を敷き、東軍を見下ろす位置にあったので、有利のはずだった。西軍8.2万・東軍7.4万が戦ったと言われるが、藩の石高100石に対し、武士3人で算出されたそうだ。

ここも国史跡の一つになっている。

ドラえもんのどこでもドア

決戦地近くにコスモス畑があり、畑の中にピンクのドアがある。SNSで話題になっているそうで、関ヶ原もりあげ隊という地域の人たちのアイディアとのこと。

決戦地

石田三成の陣と徳川家康の陣のほぼ中間にあり、一番激戦だったところで、ここも国史跡の一つ。

せきがはら史跡ガイド

「せきがはら史跡ガイド」は、関ケ原町の史跡講座を2年間受講した、メンバーで構成されています。希望の時間やコースに合わせて関ケ原の名所古跡を案内してくれるので、旅のプランに組み込みやすいです。また、初めて関ケ原を訪れた方には、お任せコースもあるので安心。

団体窓口
関ケ原町歴史民俗学習館内 せきがはら史跡ガイド事務局
所在地
〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894-28 関ケ原町歴史民俗学習館内 せきがはら史跡ガイド事務局
電話番号
0584-43-1139

ツアープラン情報

ツアー名
関ケ原史跡めぐり旅
料金
1~8名 1,000円
9~25名 2,000円
※ ガイド1名
※ 昼食をはさむ場合は、ガイドの昼食代として別途1,000円が必要となります。
開催日時
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ツアー時間
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関ケ原町歴史民俗学習館内 せきがはら史跡ガイド事務局
TEL
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定休日
月曜日(案内は可)
営業時間
9:30〜16:00
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