奈良時代から平安時代頃にかけて、陸奥国と下野国の国境に設けられた関で、人や物資の往来を取り締まる検問所の機能を果たしていたと考えらます。
帯同していただいたガイドさん
- お名前
- 根本 文彦(ねもと ふみひこ) さん
- ガイド歴
- 5年
- 趣味・特技
- 写真・旅行・蓮の栽培
- 一言PR
- お城の歴史に加え、視覚的効果を考えたと思われる石垣の模様に目を向けて欲しい。
境の明神
奥州街道沿いの陸奥(福島県側)と下野(栃木県側)の国境を挟んで神社二社が並立していて、二つ合わせて境の明神という。
豊臣秀吉が奥州を平定する際、伊達政宗に命じてこの辺りの道を整備したという話がある。
この境の明神が相撲の二所ノ関部屋の名前の由来になっているそうだ。白河の関近くには合宿所があり、部屋の相撲力士が来ていた。
奥の細道(卯の花街道)
奥州街道から途中わき道にそれて、卯の花が咲いている道を通り、芭蕉と曽良は白河の関を訪れた。その道は、奥の細道(卯の花街道)である。
曽良は「卯の花を かざしに関の 晴れ着かな」と詠んでおり、晴れ着に見立てた卯の花を頭にさして白河の関を訪れたようだ。
それから約300年の時を経た今でも、季節になると可憐な白い卯の花が咲き誇る。
白河の関跡
白河の関は奥州三古関の一つで、奈良時代から平安時代の律令国家の頃の関所として蝦夷対策の関だった。律令制が衰退すると、白河の関は歌枕の地として都の文化人の憧れの地となっていて、その後は関所はなかった。
2022年夏の高校野球大会で仙台育英高校が優勝した時、「優勝旗が初めて白河の関を超えた」と表現をされた。白河の関が一躍脚光を浴び、大勢が訪れ、土・日には千人を超えた。
関所の周りは深い空堀が掘られているが、関所が稼働していた頃のものではなく、もう少し後の時代に掘られたものとのこと。
堀の内側には平らなスペースが広がる。40人ほどの関守が生活する場があった。鍛冶屋の跡も見つかっている。
白河の関跡には、白河神社がある。伊達政宗が奥州街道を整備した時に、社殿を寄付しており、そこには伊達家の家紋の九曜紋がある。白河の関の全容はまだわかっていない。発掘すると北側に杭の跡がたくさん残っているので、蝦夷対策として北側を砦(とりで)のようにしていたのではないかとのこと。
社殿の横には、平安時代の有名な歌人の平兼盛・能因法師・梶原景季が、白河の関を詠んだ古歌碑がある。
白河の関では、弟子の曾良は一句詠んでいるが、松尾芭蕉は詠んでいない。隣町の須賀川で1週間ほど滞在していて、そこで三句ほど詠んでいる。
今回は白河神社正面の駐車場が満車のため、公園側の駐車場から入り、神社社殿を見た後、正面の階段を降りた。
矢立の松
源義経は平家追討のため平泉を出発し、ここで戦勝を祈願し、ここにあった松に矢を射たてたと伝えられている。
古関蹟(こかんせき)の碑
松平定信が検証の結果、ここに関があったと断定した碑がある。
従二位の杉
鎌倉時代初期の公家の従二位藤原家隆(新古今和歌集の選者)が手植えし、奉納したと伝えられていて、樹齢800年以上と言われている。
ツーリズムガイド白河
『白河市の観光名所を案内して欲しい!』 そんな時に頼りになるのが、ボランティアでガイドを行っている「ツーリズムガイド白河」です。主に白河小峰城、南湖公園、白河関跡のガイドを行いますので、ぜひご利用下さい。 それ以外の案内をご希望される場合は、お問い合わせ下さい。
- 団体窓口
- 白河観光物産協会
- 所在地
- 〒961-0074 福島県白河市郭内1-2
- 電話番号
- 0248-22-1147
ツアープラン情報
- ツアー名
- 白河の関コース
- 料金
- ガイド料無料(交通費 2,000円)
※ガイドがお客様のバス・車等に同乗する場合は、交通費は不要です。(小峰城発着)
- 開催日時
- 9:00〜18:00
- ツアー時間
- 約60分
- 予約受付
- 7 日前まで
- お問い合わせ
-
白河観光物産協会
- TEL
- 0248-22-1147
- 定休日
- 年末年始
- 営業時間
- 9:00〜18:00