世界文化遺産 明治日本の産業革命遺産「旧集成館」

島津斉彬が始めた日本最初の近代工業地帯・集成館を中心として、近代化への数々の業績に触れるコースです。

概要

このコースは、第28代藩主島津斉彬公の思いとその思いをつないだ方々の物語で、それが2015年に登録が決定した世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」につながる。

鹿児島「世界文化遺産」オリエンテーションセンター

2015年に、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録された。このエリアは「明治・・」と表現されているが、江戸時代(幕末)の話が中心になる。

旧集成館事業が世界遺産のエリアだが、そこから外れている大名庭園である仙厳園も世界遺産になる。

この世界文化遺産への動きは、非西洋諸国の中で短期間で急速に産業化を成し遂げたこと。特に自前で安定的に鉄を作ることができたことに対して、海外から世界文化遺産になるのではないかとの声を受けて、登録に向けての作業が始まった。

島津斉彬が薩摩藩主であったのは、41才から48才(1851~1858年)と年を取ってからの7年半と短い期間だった。これは曽祖父重豪の薫陶を受けた斉彬公が藩主となると、父である斉興の代にようやく藩の財政を立て直したところに、また多くの財を使い藩が財政的に厳しい状態に戻るのではないと心配し、藩主を譲ることを嫌ったためだと言われている。

アヘン戦争(1840~1842年)後、薩摩藩が治めていた琉球(沖縄)に外国船が来るようになり、「港を開いてほしい」と再三要求されるようになった。それはペリー来航(1853年)の10年前で、島津斉彬はこれに対して次は日本、薩摩が外国の波に呑まれるのではないかという危機感があった。                                         斉彬公が藩主になると、国防の観点で大砲を造ることに着手する。翻訳された西洋の製鉄の本だけで反射炉を作り始める。とは言っても失敗の連続だった。第1号反射炉は基礎が反射炉の重量に耐えきれず傾いてしまったり、反射炉の壁に使っていたレンガが解けてしまった。それでも基礎に松杭を使い、レンガは良質な原料を探し、薩摩焼の技術を導入するなど試行錯誤を経て、ようやく第2号反射炉が斉彬公が亡くなる1年前に完成した。

その後斉彬公が亡くなると、事業規模が縮小したが、薩英戦争(1863年)で海外の威力の大きさを目の当たりにして、再度集成館事業を再興する。

斉彬公が国防とともにもう一つ取り組んだのは、産業を起こし、人々が豊かになることだった。薩摩切子を作り、薩摩焼にきらびやかなデザインを入れた近代薩摩焼にして外国に輸出することによって、国が豊かになることを目指した。

尚古集成館(館内撮影禁止)

尚古集成館には、島津家の歴史が詰まっている。島津家の私立の博物館として、大正12年にオープンした。その時に玄関が新たに作られた。

斉彬時代の集成館の薩摩切子工場の跡地に、薩英戦争後の1865年に機械工場として建設された。積極的な技術の導入を行い、蒸気機関を動力とした英国式近代工場だった。薩英戦争で一度集成館は焼失したので、それを踏まえてか窓は鉄格子になっている。大正10年(1921年)まで稼働した。

薩摩切子

ギャラリー

1846年にガラス製造が薩摩で始まる。斉彬公の時代に色被せガラスの製造に力を入れ、1855年に集成館にガラス工場を作った。しかし斉彬公没後、工場は縮小され、薩英戦争で工場を失い、薩摩切子は途絶えてしまう。

薩摩切子の職人たちは薩摩を離れたが、その色被せ技術は今の江戸切子のなかに活かされている。

1985(昭和60)年に薩摩切子がよみがえり、現在多くの薩摩切子が産み出されている。サントリー美術館は薩摩切子に対して造詣が深い美術館で、集成館事業において色被せをしていない薩摩切子もあったとの見解が示され、透明な薩摩切子もある。

切子工場

薩摩切子として製品になるまでには大きく分けて、生地作りと加工と二つの工程がある。

生地作りでは、

  1. 色ガラスと透明ガラスを別々に溶かす
  2. 色ガラスを型に吹き、その内側に透明のガラスを流し込み、2層にする(外側の色ガラスの部分を加工することで模様を作る)
  3. 仕上げをする(成型)
  4. 出来上がった成形をゆっくり冷ます

加工では、

当りという図柄に合わせた線引き~柄の仕上げ~磨き~仕上げまで、6つの工程を分業制でおこない、製品にしていく。

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

日本最初の近代紡績所を作る時に、イギリスから機械を輸入したのと同時に、7名の指導技師を日本に招くため、住まい用に建てられた建物が技師館である。2年の契約の予定だったが、戊辰戦争の時期で1年で帰ったため、住まいとしては1年しか使われていない。世界遺産の構成資産の一つとなっている。紡績所は、明治30年まで稼働した。

技師館は、ベランダコロニアル方式の建物で、軒下をめぐる回廊スタイルの四方から風が入ってくる造りで、長崎のグラバー邸も同じだ。見た目は洋館だが、ドアノブなど和式の造りで和洋混合となっている。玄関上の2階からは、海越しの桜島の眺望を意識している。住まいとして使用された後は、大砲を作っていた時の事務所・明治5年の明治天皇行幸の時の食事の場・明治10年の西南戦争の時の病院として利用された。

その後、明治15年に学校の校舎として移築されたが、昭和11年に建物が古くなり、元の場所に戻り、一般公開されるようになった。

反射炉跡

島津斉彬は、鉄製大砲を必要としたため、鉄を溶かす技術が必要となり、反射炉に着目した。火床で燃料(木炭)を燃やし、その熱を壁や天井に反射させて、炉床の銑鉄を溶かす施設で、現在残っているのは反射炉の基礎の部分で、数万個の耐熱レンガを使った炉の重要を耐えるため、頑丈な石組がなされている。

仙厳園

錫門

赤い門は、江戸時代に正門として用いられていた物で、屋根は錫の板でふかれている。この門は、当社と世継ぎしか通れなかった。

NHK大河ドラマ「西郷どん」の時のロケ地として利用された。

江戸時代は殿様としての住まいとして利用されていた。明治20~30年には、江戸時代最後の殿様島津忠義公や子供たちが住んでいた。

NHK大河ドラマの西郷どんの時に使用したセットの衣装や蒸気機関、電信機などが展示されている。

謁見の間の海側の障子を開くと、海越しの桜島が見え、一番のスポットになっている。

昔は生垣がなく、直接海に行けるプライベートビーチになっていたと考えられている。

庭先でガス燈を実験したということで、このエリアも世界文化遺産となっている。斉彬は、ガス燈を街路灯にしたかった。

西郷どんのロケ地(斉彬と西郷隆盛が相撲を取るシーン)として利用された

かごしまボランティアガイドの会

鹿児島市の観光名所をボランティアガイドと一緒に巡る「鹿児島ぶらりまち歩き」。各コースごとにまつわる歴史やエピソードを聞くことで、ガイドブックだけでは見えてこない観光名所の生きたストーリーを感じることができます。

団体窓口
鹿児島まち歩き観光ステーション
所在地
〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町2-30 二之丸ビル1階 鹿児島まち歩き観光ステーション内
電話番号
099-208-4701

ツアープラン情報

ツアー名
世界文化遺産 明治日本の産業革命遺産「旧集成館」
料金
大人(高校生以上)
2名以上での参加の場合、1名当たり500円
1名での参加の場合 1,000円
小・中学生 1名100円
未就学生 無料
開催日時
9:00〜17:30
ツアー時間
2時間
予約受付
・電話申込み
 前日の17:00まで
・ホームページからの申し込み
 前々日まで
お問い合わせ
鹿児島まち歩き観光ステーション
TEL
099-208-4701
定休日
12/29〜1/3
営業時間
9:00〜17:30
(ただし、3/20~8/31は19:00まで)
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